許されざる者



クリント・イーストウッド監督・主演「許されざる者」のリメイク作品。
つまらないので、見ながらオリジナルと比べてばかりだった。そうしておいて後で散々文句を言うのも楽しみの一つってことか(笑)


オリジナルのオープニングとエンディングは、いかにもマルパソ!って感じの画に、「ある女性がなぜか『人殺し』と結婚した」「彼女の母親には、結局、娘がなぜ彼と結婚したのか分からなかった」という文章が流れる。私はこれが大好きで、「彼女はなぜ彼と一緒になったんだろう?」と思いながら見る。ところが本作では私のそうしたロマンは、渡辺謙演じる「人斬り十兵衛」の「(彼女とのことを)忘れるわけがない、無理やりさらったんだからな」という一言で台無しにされてしまうのだった。
お梶(小池栄子)の「死人のふりして生きるのはもうまっぴら」の台詞の後にばーんとタイトルが出るのに覚えた予感の通り、本作は何でもかんでも「明確」にしてしまう。イーストウッドには、愛する女性との出会いで残酷なことを止めたとはいえ、思いがけずまた人殺しが出来る!というような感もあり、その「遊び」の部分が楽しいんだけど、本作の場合、十兵衛が息子の掘った「食べるところが無い」芋を見る場面や、相棒・金吾(柄本明)の「もう一度上を見たい」という台詞を聞く場面などにより、再び賞金稼ぎに出る「理由」がはっきりしている。こういうの好きじゃない。何につけいちいち「理由」があるため、こういう人なんだ、で済ませられず、却って納得出来ない部分も出てくる。
オリジナルでは、出発の際に馬から落ちたイーストウッドは息子に「しばらく人を乗せてないからね」と言われるが、渡辺謙は自分で言ってしまう(笑)米日の親子関係の差もあるのかな?いずれにせよ、そこにも表れてるように謙さんって「完成」されてるというか、あやふやな感じが無いから、こういう方が合っているといえば合っているのかも。


本作で印象的だったのは、縛り上げられた二人の前で、お梶の手を掴んだ警察署長(佐藤浩市)が「こうすればいいのか!」とナイフで彼らを刺す仕草をするが、お梶が嫌悪して振りほどくという場面。彼女は自分の手で二人を傷つけたいと思っているわけではない、というのが(ここでも)はっきりと分かる。
人々と女郎とは立場が違うわけだから、顔を切られたからといって顔を切り返しても「意味を成さない」。誰かがすること、されることは、同じ土俵の上に並べて比べることができない。世の中のそういう複雑さを描いてるところが本作の面白さだと思うんだけど、本作にはそういう空気を全く感じず、なぜリメイクしたのか分からなかった。
女郎といえば、三日間の昏睡の後に外へ出て食事を取る、俺はまだ生きている、と実感する主人公に、顔を斬られた女が声を掛ける…って、オリジナルとほぼ同じ格好の場面において全く違う会話がなされるのにはがっかりしてしまった。もっとも忽那汐里は子どもにしか見えないし、渡辺謙も「そういうキャラクター」じゃないから仕方ないか。オリジナルの該当箇所は作中一番好きな場面の一つ、自分に対する思いやりと自分以外の「女」に対する愛情を示す「男」に出会って「娼婦」がわずかに抱く希望を感じ、ベタながらじんんとしてしまう。加えて、女にとって、この人どういうセックスするんだろう?と思わせられる男に限って交わる機会がない、という哀しさというか面白さも感じる。


本作の舞台はオリジナルと同時期の明治時代初期、十兵衛は江戸幕府側の残党という設定。署長が部下達に「お前ら、刀の握り方も忘れたのか!」と怒鳴るように、人々と「武器」とは一体ではなく少々の「距離」がある(ように見える)。「刀」と「銃」が混在するという面白い状況において、どんなアクションが見られるのかと思いきや、これまた理詰めというか、人々にとってこれらの武器とはどういうものか、というのを説明するかのようなエピソードを長々と見せられるのみ。もっと「実感」したいのに。「クライマックス」のほんの一瞬、それを「実感」したんだけども、その後の一幕がスローモーションまで使っての長丁場なんだから白けてしまう。あれはダサすぎる。
誰かが誰かに振るう暴力、あるいはその結果(=「傷」)の描写もやたらしつこく、こだわりを感じた。暗がりでいつの間にか顔を切られているイーストウッドに対し、渡辺謙は大仰な仕草の佐藤浩市に酒瓶で「目印」を付けられる。柄本明による「一人目」の痛々しい傷や死に様、柳楽優弥と「二人目」との、アイヌのナイフによる乱闘なども、あっさりとはいかない。


オリジナルのあの場面が「日本」じゃこうなるのか、という些細な楽しさは確かにあった。岩が切り株に、和式便所だから向こう向いてるんだな、とか(笑)