未来を写した子どもたち


シネスイッチ銀座にて観賞。館内の階段脇に、作中出てくる写真が幾つか展示してありました。



インドのとある売春街で生まれ育った子どもたちが、女性カメラマンの開いた写真教室を通じ、人生を変化させてゆく姿を追ったドキュメンタリー。


当然ながら町には色んなタイプの子どもがいる。映画の冒頭、ある女の子の言葉で彼等が手短に紹介される。
まずは、女の子たちの格好について色々想像した。派手な色合いでフリルのついた、ごたごたした服の数々は、どこで作られ、売られ、買われているのか。髪を編んだり、リボンやヘアバンド(いつもずりおちそう・笑)を付けたりしてる子は、家族にしてもらっているのか、自分でするのか。また、この服はお気に入りとか、そういうこだわりがあるのかなあ、などと考えた。


子どもたちにとって、自分の家で行われている売春は「見えないよう吊るされたカーテンの向こうで行われているもの」「客が金を払わず逃げれば追いかけるもの」だ。そしてその暮らしは「いつもお金のことばかり」。
作中「売春」を直接感じさせる映像は、街角に立つ女性たちを映したもののみだけど、その結果は、映画の最初から最後まで貫かれている。彼等にとっては、カーテンの奥で何が行われているかなんてことより、売春の「結果」のほうが大きいのだ。街を抜け出したく思っても、学校への入学許可は下りない。


カメラマンのザナは写真の面白さについて子どもたちに教える。よい写真とは何か?情報が多いこと、構図やアングルが面白いこと、個性があること。
子どもたちの一人、アヴィジットの作品はたしかにそうだ。当初、他の女の子の口から「太ってる」とだけ紹介された彼には、写真の才能があった。インド代表としてアムステルダムの子供写真展に招待された彼は、服を新調し、肩で風切って海岸を歩く。
アヴィジットは、写真展でとある作品を前に「これは少し悲しい感じがするけど、ちゃんと見なきゃね」と言う。街の他の男の子も「うちは汚いんだ、お皿の横に靴がある。それをそのまま撮って伝えたい」と言っていた。学校に行かなくたって、そういうこと…写真の意義、を自分なりに考えている。
勿論彼等は、真面目な顔でカメラを構えているばかりではない。皆で海へ行くシーンでは、遊びながら写真を撮るってあまりないよなあ(普通は遊ぶ人と撮る人とが別だから)、楽しそうだなあと思った。しかし、町ゆく人にカメラを向けると「このガキが、どうせ盗んだカメラだろ」などと罵声を浴びせられる(それゆえ撮影には「度胸」も必要となる)というのは想像に難かった。
彼等が日本に来たら、どんな写真を撮るだろう?


ザナが街へやってきたのは、売春婦の女性たちを撮るため。しかし子どもたちと出会った彼女は、人生のチャンスに気付いてもらおうと活動を始める。「ワーカーでも教師でもない自分にできることは限られてる」と嘆きながらも、学校へ入るための資金作りに彼等の写真をサザビーの競売にかけ、展覧会を開く。
私は、少なくとも日本において教員…あるいは子どもにものを教える者に必要な資質とは、「なんでもあり」のこの世の中において、子どもに対し、自分の立ち位置をはっきり示し、付いてこさせるだけの自信を持っていることだと思う。彼女にはそれがあると感じた。


ちなみにこの映画の入場料金の1パーセントは、ザナが設立した支援基金に寄付され、売春窟の子どもを受け入れる寄宿学校の建設運営基金に充てられる予定だそう。映画を観ることでも、少々のことはできる。



「動物園のゾウは、ビニールが落ちてると餌と間違えて食べちゃうんだ、お腹を壊すのにね」