私をくいとめて


映画はみつ子(のん)が「隣の人」に「よろしく頼みます」と言うのに終わる。これは自分自身(=A)にしか頼ってこなかった主人公が他人を頼りに出来るようになるまでの話である。頼り合うことの出来るまっとうな関係が作中では横並びでもって表され、彼女が誰かと横に、隣に並ぶ場面が繰り返される。とりわけ彼女が頼っていた…はずが実のところは「くすぶりをごまかし合って」いたと自身で認める皐月(橋本愛)と久々に再会するもなかなか隣に並べないのが印象的。雨のカフェでの、真正面に座る、遠くにいるかのように見えるみつ子目線の皐月のカットが心に残る。

みつ子は、CAさんのパンプスにつき「いざという時にはスニーカーに履き替えるって知ってるんだから」という形で悪態をつくことからも分かるように人の背景に情けを掛けるタイプではない。自分に対しても同様。だから温泉での怒りが、Aに、すなわち自身に吐露しているうちに「あの人を助けてあげられなかった」から「私には才能がない」などとダメな自分への苛立ちになるのである。見ていて悲しかったけれど、皐月との関係が良くなってからは絵を、ただ好きだからという理由で描くことができるようになったのだから、彼女の怒りは形を変えていくんじゃないかと思う。

「多田くんと付き合ったら私の生活、何が変わるのかな」「何も変わらないさ、おれが隣にいるだけ」「それなら私にも出来そう」。見終えて振り返ると、そういや初めての食卓でみつ子は多田くん(林遣都)に対してあなたにお茶を出す時も本当はすごく嫌なんだという話をしていたな、やがては料理を作るのが面倒だったとも話すのかな、などと考えるのと同時に、この物語が彼女目線だから私もやり過ごしていたけれど、先のやりとりはもしかして失礼だったろうか、とふと思う。作中のぞみさん(臼田あさ美)や多田くんが少し失礼にも見える場面があったけれど、それは誰にでもあるんだ、みつ子にだって、私にだって当然、と。それを時には話し合って、あるいは許し合っていくのが人と付き合うってことなんだと。

上京して一人暮らしを始めて最も快かったことの一つは、帰宅時に灯りがついていないこと。暗い所に帰ってくると自分がそこの主であると強く実感できる(防犯や利便性はまた別の問題)。しかしこの映画で何度も描かれる、みつ子の帰宅時の「真っ暗」に快さはない。そもそも序盤の「Hanakoに載ってたサンドイッチ屋、一人で行っちゃお」なんて独り言から分かるように、彼女にとって一人であることはそうあらまほしきことではないのである。作中ではみつ子の動揺に応えて照明が消えたり点滅したりするが、初めて部屋にやって来た多田くんが玄関の電球を取り替えてくれるのが、後から思えば彼女が彼を頼ることになる予兆であった。