アルゲリッチ 私こそ、音楽!



公開二日目、Bunkamuraル・シネマにて観賞。この日は全回満席だったそう。
ピアニスト、マルタ・アルゲリッチを娘のステファニー・アルゲリッチが映画監督として追うドキュメンタリー。


映画の始まりは分娩台の上の女性の姿。その脇にコートを着たまま立っているのがマルタ・アルゲリッチ。赤ちゃんが産まれ、アルゲリッチはおそらく仕事の電話を受けるため室外に出る。水中に揺らぐ髪、浴槽に上向きに半分沈む、新たに母親になった女性の顔に続いてタイトル「Bloody Daughter」。それは先程出産した、この映画を撮っているステファニー・アルゲリッチのこと。作中、彼女と一緒に暮らしたことのない、戸籍にも記されていない父親が、「『bloody』は忌まわしいという意味じゃないんだ」と説明する。


アルゲリッチ(映画の作り手が映っていない殆どのシーンにおいて、作中ではやはりマルタ・アルゲリッチが「アルゲリッチ」なのだ)がかつて奏でた「夜のガスパール」に乗せて列車がゆく。観光ではない、仕事での旅。見えるのは窓からの月や、窓に付いた雨の滴。
ワルシャワの駅のホームに到着したアルゲリッチは、眼鏡を息で湿らせ衣服で拭く。会場に入ると、団員達のリハーサルの横で、言ってみればズタ袋のような鞄を探ってバナナを取り出し外で食べる。彼女は(少なくともこの映画を見る限り)野菜や果物にこだわりがあるようで、作中最初に映る食事はカップ入りの葉物のサラダだし、旅先のホテルの朝食では、お皿に綺麗に盛られた果物の匂いをくんくん嗅いで口を付けない。


何度か挿入されるホームビデオは、アルゲリッチが日本で買ってきたカメラで撮られたものだという。終盤には親子が日本を訪れる様子が見られる。快速列車のアナウンス、車窓の富士山、箸で食べるわっぱ型の駅弁。別府アルゲリッチ音楽祭の会場の外に貼られたポスターを映しながら、「私(娘)」が「彼女(母)から逃れても(追ってこないのに)すぐに捕まる」と語る時、バックに流れているのが近くの横断歩道の信号の「通りゃんせ」というのが何だか面白い。
この旅には、私がドキュメンタリーを見る際に「答え合わせ」と呼んで楽しみにしている類の描写がある。冒頭アルゲリッチと友人のマネージャーとの間で交わされる、ステージでの演奏前はいかに憂鬱であるかという会話の内容が、その通りであることが判明する。「私」によると「子どもの頃は事前の彼女の愚痴で演奏会が終わるとこちらがぐったりしていたが、彼女の方は若返っていた」というのが可笑しい。


「答え合わせ」はもう一つあった。「昔」のアルゲリッチの演奏の映像が挿入される度、確かにすごいけど、(映画を撮っている)「今」の彼女と比べると面白みが無いような、出来れば「今」を味わいたいというような気持ちになっていると、次第に、アルゲリッチは自身が映像に撮られるということについてネガティブであることが分かってくる。
いつも行っていたという植物園では、カメラを通して自分に着いてくる娘に「撮影していたら物は見えない」。女だらけのピクニックでは、自身の若い頃の映像について「止まっているもの、あるイメージでしかない、自分を内から見るのと外から見るのとでは違う」。終盤には「映像の中に人生は無い」と言い切る。そうした気持ちが「映像」に表れるなんてことは言わないけど、私としては自分の気持ちが肯定されたようで嬉しかった。


アルゲリッチの顔のアップがやたら多いと思っていたら、最後にその謎が解ける。「10年前」のアルゲリッチの寝起きの映像に合わせて「私」が語る…「昔から母をよく撮っていた、なぜだろう、目や髪がぎりぎり入るほど、できるだけアップで」。「目や髪」とは、「私」が母の故郷のブエノスアイレスで口にする「母の特徴」。「私」は母に魅せられ近付きたいと思っている、その気持ちの表れが顔のアップなのだ。勿論、映像にはそうした「運動」が記されるだけで、「私」が求める何かは残らない。でもその運動性がいいなと思った。この映画の場合、それは対象のネガティブな感情をも凌駕しているのだ。
その後のやりとりで、母は「いつもあなたを気に掛けている、大好きだから、仕方ない」と笑う。映画はそこで満足したかのように、いったん終わる(その後に「おまけ」がある)


印象的だったのは、日本の旅館で頭のマッサージを受けるアルゲリッチが、手を上方に伸ばして指を動かしてみる場面。私はピアノって、ペダルも付かない単音こそが一番好き、そこにこそ感じるピアニストのパワーは、当たり前だけど「指」だけからくるものじゃないんだ、全身と繋がってるんだ、ということを最確認したから。



…というわけで、週末は意図せず続けて「母子もの」映画を見たことになる。いずれも子から母への愛の告白であり、同時に母からの自立の過程が描かれている。前者は母を自らが演じ、後者は母をカメラで物理的に執拗に追うという、手立ての違いが楽しい。偶然にも「子」の側、作り手はどちらも私と年が近い(だから「母」の方も私の母とそんなに変わらない)というのも面白かった。