ラブ&マーシー 終わらないメロディー



公開初日、角川シネマ有楽町にて観賞。「映画の日」ということもあってかほぼ満席。楽しく見た。


「Brian Past」(60年代のブライアン・ウィルソンポール・ダノ)が「僕の中の誰かが居なくなったらどうしよう」と心情を吐露する姿(彼に関する知識が無いためか?私には誰に向かって何のために語っているのか分からなかった)に続いて、オープニングクレジット。ダノが歌い出すのにわくわくするが、「カリフォルニア生まれ」の「ビーチボーイズ」がヒット曲を連発する軽快なこの一幕は、次の場面で「Brian Future」(80年代のブライアン・ウィルソンジョン・キューザック)がキャディラックの外に置いた靴に付いたビーチの砂なのだった。しかし靴を脱ごうと、砂は彼の足に残っていた。


映画は60年代のブライアンと80年代のブライアンを交互に描く。後者とデートしたメリンダ(エリザベス・バンクス)が「正直な人ね、今時めったに居ないくらい」と言う場面の後に、前者が自宅で「God Only Knows」を歌う(父親に「そんな女々しい内容の歌詞はビーチボーイズじゃない」とけなされる)場面が続くなど、始めはその構成によりブライアンという人物の「謎解き」が楽しめたけど、次第にそういう「感じ」は無くなっていく。この映画におけるブライアンはいわば「地に足が着いていない」状態なので、時を超越しているように感じられ、要するに全てがブライアンの断片なのだと思う。そちらの「感じ」が最高潮になったところで、彼を愛するメリンダの助けにより「モンスター」から解放され、統合が起きる。


「精神」と「肉体」とを分けるのがナンセンスだとしても、この映画からは、二人の役者が肉体を存分に使って演じているのに、ブライアンの「肉体」を全く感じない。60年代のレコーディングのシーンは彼の頭の中をのぞいているようだし、80年代だってそう、制作中にメリンダと会うがガラスの向こうから「モンスター」の声がして結局従ってしまったり、自身の中のメリンダに「Back to yourself」と言われピアノの元に戻ったりと、「一番近く」じゃないけど海辺の家での場面は全て、脳内地獄めぐりとでもいった様相。最後、ようやくピアノに辿り着いた彼は一人で「外」に出られるようになる。


60年代のブライアンは、自分にとって「spiritual」とは「目を閉じても見える大切なもの」だと父親に説明する。そのおかげで彼は音楽を世に表してきたが、音楽に携わっている限り、「深みに来ない」他の人々と上手くやっていけない。例えば「Good Vibrations」に関するくだりでは、「Pet Sounds」が期待したほど売れなかったとマイク・ラブ(ジェイク・アベル)に責められる、新しい曲のコアを生み出し彼を満足させる、レコーディングの際にテイクを重ねメンバーをうんざりさせる、大ヒットの祝いの席で父親から連絡が無いことを気にし始めると食器の音に脳をやられる…そんなふうに世界とのぶつかり合いによる「浮き沈み」を繰り返す。80年代のブライアンは、当時の曲を聞くと「頭が壊れる」と言う。


80年代のブライアンとメリンダが出会う場面において、ブライアンが車のドアを閉めると、外の音楽が聞こえなくなるのが面白い(あんなに「遮断」されるものだろうか?)この一幕は想像するだにぞくぞくするほど「肉体的」だ。金色の髪にアクセサリー、ブルーの瞳にドレスの彼女が勧める車を彼は特別だと言い、「現物」を欲しがる。ブライアンはこの時に何かを掴み、魅了されたのかなと思う。しかし後に船から海に飛び込んで家まで泳ぐくだりでは、ああまでしても日暮れまでのひと時しか「それ」を掴んでいられない。もうひと押し、端的に言えばメリンダによる実際的な処理が必要だった、そのことをしっかり描いているところも面白いと思う。


60年代のパートナーのぱつぱつの二の腕と、80年代のパートナーの細長い手脚。私はぱつぱつ系だから前者の格好の方がまだ合うはずだけど、この映画では後者のエリザベス・バンクスのファッションがたまらなく素敵で見惚れた。彼女にとても似合っていた。