若きスコット・ソーソンを演じるマット・ディモンの白シャツの肉厚な背中に焦点が定まり、向かいの男、肩越しの「男の尻」、二人の顔のアップ(=二人の世界の成立)。このオープニングが素晴らしく惹き付けられた。これはスコットとリベラーチェの出会う切っ掛けとなった瞬間、あるいはスコットが(リベラーチェの「手下」に)「捕らえられた」瞬間だろうか?徹頭徹尾彼の視点なのでどうとでも想像が出来て楽しい。映画の中においても、そもそもこの映画はどのような「事実」に沿っているのかという点においても。
ともあれ本作は最初から最後までスコットの物語である。原題「Behind the Candelabra」にこの邦題、見終わると「僕の恋したリベラーチェ」の方が座りがいいように思う。
リベラーチェ(マイケル・ダグラス)の楽屋にて、スコットの「前任者」(となる)ビリーが一人で淡々と食事をする様子、そちらにたまに目をやるスコットの表情なんて描写が面白い。一人で屋敷に招かれるくだりでは、ジャグジーから出た二人の向かい合う裸の足、夜景を見下ろす窓の白いカーテンの前での、逆光で陰になった二人の向かい合う横顔が、「機械的」な感じを受けるも印象的だった。
リベラーチェとスコットの関係が絶好調時の場面…リベラーチェがスコットに高級品を買ってやるような場面などは、軽快な音楽と共に手早く描かれる。一方で心に引っ掛かりを残すのは、食事中のキスや相手が嫌がってる時のキス、犬のムダ吠え…リベラーチェのハゲ頭のどアップから始まる「整形手術」の思い掛けないグロ場面では、隣の男性が比喩じゃなく両手で目を覆っていた。終盤、あてがわれた屋敷を追い出されたスコットが、誰かに咥えさせてるのかとも思ってしまう顔のアップの後にカメラが引くと、薬物を摂取して体を揺らしながら「愛してる、愛してる」と言い続けてる姿にはこちらも震えた。
ラスト、分別ある大人として身なりを整えたスコットは葬儀中にリベラーチェのショーを「見る」(この場面、落語の「片棒」を思い出してしまった・笑)。彼は「かぶりつき」の席に座らず(座れず)、あるいは初めての日を思い出しているのだろうか、中ほどの席に腰掛けている。その目がリベラーチェに釘付けなのは初めてのショーの時と同じだけど、そこにはかつて無かった穏やかさがある。リベラーチェの方は客席に唯一人のスコットの方を向いていない。「リベラーチェ」とはそういう存在であると、スコットが認めて受け入れていることが分かる。
作中のリベラーチェは、お払い箱の際には顔を合わせないどころか金で他人を雇って相手を追い出すような「ひどいやつ」だけど、気持ちは分かるし、そういう人だっているだろう。でもってそういう人に惚れる人だっているだろう。傍から見たら馬鹿馬鹿しいってのは、よく出来た映画、いや物語にはどうでもいいこと。ふと「完璧な人間はいないが、完璧な映画はあるかもしれない」なんて無意味なことを思った。
マイケル・ダグラスは実際にピアノを弾いているようにしか見えない。検索して読んでみたインタビュー記事によると、「私はピアノが弾けないから(略)ピアノの上で演奏映像を流して、鍵盤の上でどこに手を置けばいいか見ながら動きを真似した。それを何度も繰り返すうちに、曲に合わせて鍵盤が叩けるようになった」のだそう。「鍵盤を叩く」ことと演奏することは違うんだな。私も一応ピアノ習ってたから、それは「分かる」けど、「動きを真似する」だけなんて却って高度すぎて、どういうことなのか想像できない。