テルマエ・ロマエ



ゴールデンウィークの間、新宿ピカデリーのサイトを何度かチェックするも満席で、連休明けの夜にやっと観られた。原作漫画は1巻を流し読みしたことがあるのみ。


映画としてはあまり好みじゃなかったけど(というか「映画」ぽくないけど)、そのカタチゆえに色々考えてしまう、という意味では「面白」かった。最後に映るのがエセ「ケロリン」というのが、愛しさを覚えてしまう(ほど生真面目な)主人公のキャラクターのダメ押しになっておりよかった。エンドロールが「映像」付きなのもいい、あれなら最後まで飽きずに見られる(笑)


オープニング、舞台となるハドリアヌス帝政末期のローマの情勢が簡単に語られる。そんなこと必要なの?と思いきや、「物語」はその頃の事情と割と密に絡んでいるのだった。ラストに「歴史」に残る人物の「その後」をテロップで示した後、主人公ルシウス(阿部寛)について「文献が残っておらず分からない」とするのは面白いなと思った。そういう人の話、というわけだ。


本作の一番の「売り」は、「ローマ人」を「顔の濃い」日本人役者たちが演じていること。見ていて興味深かったのは、彼らと、外国人による「ローマ人」との絡み。例えばルシウスとその妻とが言い合う場面など、妻の役は外国人の演技に日本語の吹き替えがあてられている。日本語を喋りながら演技している日本人と、「日本語」を念頭に置かず口を動かしている外国人とでは、演技のやり方が違うんじゃないかな?などと考えた。しかし日本の役者の演技が「西洋風」だからなのか、それともそういうものなのか、とくに違和感は覚えなかった。


前半は「一話完結」の原作の魅力をそのまま活かした作り、ルシウスがタイムスリップしては新たな風呂を作るのを繰り返す。全裸シーンの多い阿部寛の、銭湯の爺さんの体に始まる、ちんこの隠し方あれこれが気になってしょうがなかった。「ザ・フライ」を思い出したり(笑)そして「あるはずなのに見えない」実際の性器の代わりに、彼が買う「プレゼント」や日本の温泉浴場に飾られてる天狗の鼻、お祭りなどの代替物がやたら出てくる。
シンボルはあれど、「性」の匂いはきれいに排除されている。ルシウスやハドリアヌスの「性」の相手が非・日本人役者、すなわち「エキストラ」であり、重きを置かれていないこと(アンティノウスは一応「歴史上」の人物なんだから日本の美少年を使ってほしかった)、ケイオニウスが嫌悪される理由が「女好き」(というかあれは「暴力」だけど)という点に集約されていることなどちょっと面白い。


映画版オリジナルの、現代日本の女性(上戸彩)を投入したことにより、「タイムスリップ」ものにつきものの「過去を変えてはいけない」とそれなりの切なさが加わり、さらに「ハドリアヌス帝はこれこれこういう人物と皆が認識しているわ」なんてセリフにより、「歴史」って何だろうと考えさせられる。もっともこれらの要素はいずれも、私には要らないものに思われたけど。
また、原作にそういう描写があるのか知らないけど、これも私には興味のないことなんだけど、人様のアイデアを拝借した物作りに対する悩みも盛り込まれている(軽度の「僕はビートルズ」問題とでもいおうか)。どうなるのかと思いきや、作中では上戸彩が笑えるほど単純な態度でそれを解決する。二人は恋人ではなく、(似た者)「同士」として描かれる。


本作を一番端的に表してるのは、「タイムスリップ」の時に流れる音楽を指揮する(おそらく「イタリア人」の)音楽家、というかおじさんだろう。物語の枠の外の存在には、日本人らしい「照れ」というか「空気を読む」感じを受ける。