ドライブ・マイ・カー


男がセックスする時に求められることはない「なぜ?」が女には求められる。妻が自分以外の男とセックスしていた理由を彼女の内に求め続け行き詰まっていた男が、そうか、理由なんてないんだと気付くまでの物語である。北上した旅の終わりに家福(西島秀俊)が「いま分かった」と言う時、序盤に彼がドアを閉め階下に降り煙草に火を点けたところに車が「登場」する奇妙に印象的なカットが蘇り、あの時から彼にとって車はそれまでとはまた違った存在になっていたのだと理解した。何かこう、鎧のような。
そこに辿り着くのに家福が何をしたかというと、他者を車の中に入れ自らを預けることである。しかしその相手が(尋常ではない技術を持つ)若い女・みさき(三浦透子)であり、更に彼女の「告白」がダメ押しすることを考えると、女に対する幻想を解くのに結局は女の力を借りなければいけないのかと少々がっかりさせられる。

原作では「運転しなかったので」で済まされている妻の運転への対応や、みさきと初対面時の「私が若い女だからですか」「僕はそんなこと『気にしない』」とのやりとりなどが、村上春樹が長々書いた冒頭のいわば代わりになっている。家福がどういう男だか分かる。小説のその部分の締めの「人前で口にするには不適切な話題であるように思えた」との一文が表す思慮の半端さも、西島秀俊によって過不足なく描写されている。
家福は自分の苗字に話題が及ぶと「妻が結婚をためらった理由だ」と当然のように言う男だ(自分の姓になるものだと思っている)。原作では「妻」とだけ書かれていた女に名前が与えられ、家福も高槻(岡田将生)も彼女をその名で呼ぶ。葬儀の際の看板の苗字の部分は木で隠されて見えない。苗字で呼ばれる家福や高槻に対しみさきや音(霧島れいか)を名前で表される存在としていること、この点だけは作り手が意識的なのか否か掴めなかった。

(以下「ネタバレ」しています)

映画は村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」の他に同短編集に収録の「木野」の要素を取り入れ、妻に謎などなかったと受け入れた家福が「自分は正しく傷つくべきだった」と気付いて吐露するところまで到達する。
それでは、家福と対照的な存在として設定されている、もう一人の男の俳優である高槻とは何なのだろうか。原作では家福の方から彼に声を掛けているのが逆になっていたのは、高槻の、自分は空っぽだ、そこから抜け出せそうな手がかりが音さんの書いたセリフを言う時にはあった、という自覚を強調するためだろう。家福は自身の欠落に気付いておらず、高槻は気付いていながら適切な手段が取れず破滅してしまう。その直接的な原因を(未成年との性行為に加えて)相手を死に至らしめるまでの暴力とするのが、私にはちょっと理解できなかった。そこまでやらないと「退場」させられないのかと。

家福は自分が知っていることを妻に悟られないよう生活していた、辛かったけれど、何せプロの俳優だから。「観客のいない演技」という言葉でそれをさらりと表す原作においては、演劇いや演技は極めて個人的な出来事に留まっているが、映画ではそうでない。ワーニャを演じられなくなった彼が、みさきとの対話や仲間との仕事を通じ、演劇でもって世界としっかり繋がる。テキストと相手に自分を任せることにより、まず俳優同士の間に「それ」が起き、次に観客の間に広がる。作中最後の舞台は観客の大きな拍手で終わり、「観客のいない」とは正反対の状態で家福は退場する。
みさきに車を譲った後、家福はどうやってテキストを覚えていることだろう。別の車を買ったか、方法を変えたか、それとも…そこのところは色々と想像が膨らむ。