だれかの木琴



とても面白かった。原作は知らないけれど、お話をそのまま映画にしたら、言外の意味(お話が持っているものでも映画の作り手が持っているものでもなく、「反応」によって生まれたとでもいうようなもの)が溢れ出てしまったというか、そういう感じを受けた。
予告に遭遇する度になぜこの曲が主題歌なんだろうと思っていたけれど、そもそも井上陽水自体がこの衛がに合っていた。借り物の言葉と音に酔わせられるというか。


オープニングは「メゾネットタイプ」の住居が並んだところ。あまりに人の気配が無いので不安になるが、目を凝らすと少しある(家々の外に何も出ていないようだが、よく見ると少し出ている)。そのうち窓の一つに明かりがついて、池松壮亮が外へ自転車を出す。
歩いている時など、たまに、道からすぐのドアに妙な感じを受けることがあるけれど、この映画では、常盤貴子池松壮亮のどちらが住まう家にも、ドアから道までの距離はあるが、居住者がドアを開ける内側からの場面になると、例えばさっきまでセックスしていたのが、開ければいきなり外というのが奇妙に感じられる。


食卓に向かい合う夫と妻。闖入者に対し「うちの妻がストーカーをするはずがない」と静かに返す夫と、後ろで満足げに聞く妻(この時の常盤貴子の何とも言えない顔)。この映画の登場人物が、恋人や家庭や仕事を選んだ時のことが想像できない。まるで生えた場所で死ぬまで過ごすしかない植物みたい、SFものを見ているようだった。その中で、「本当に」環境を選べない娘の涙と手紙、嫌なら動いてみせようという恋人の暴れぶりは胸に響いた。
そういうことを批判的に描いているわけではないのに、うちに帰ってパートナーの手を握って、好きなら一緒にいる、嫌なら逃げる、そういう自由の中に自分は生きているんだということを確かめたくなるような、そんな映画だった。


予告でも見られる、池松壮亮の「がっかりさせるなよ!」はどういう状況で発せられるのかと思っていたら、どうにも妙だった。しかしこの映画が「生えた場所で過ごすしかない植物達」を描いているとしたら、しっくりくる。その場所に居づらくなることを口にする相手に苛立っているのだ。「22歳で無職で住所不定って、こいつの人生は何なんだ」なんて無神経に過ぎるセリフもそう、生えた所で育つだけなのになぜ出来ないんだ、というわけだ。
全篇に散りばめられている、「女は狂う」「そして男は女になる」「女に触ってもらいたいだけなのよ、かわいそうに」等の「いかにも」なセリフの数々(だけじゃなく、ああいう男がああいうことをする!)にも全く現実味が無い。やはりこれは「そういう世界」の話なのだと思う。