フォロー・ミー



「彼のもとに帰りたいんじゃない、前に進みたい、一緒に成長したいの」


「この世で最も重い罪は…喜びを喜びと認めないこと」
「彼女はあなたを愛してる、ぼくに喜びを与えてくれたのは、あなたが受け取ろうとしないからだ」



1972年、キャロル・リード監督作品。
ロンドンに住む公認会計士のチャールズ(マイケル・ジェイストン)は、愛し合い結婚したアメリカ人ベリンダ(ミア・ファロー)の態度に気を揉み、素行調査を依頼。日がな町をさまよう彼女を、探偵クリストフォル(トポル)が尾行する。
エリートとヒッピーの夫婦というので、はじめドラマ「ダーマ&グレッグ」を思い出した。時代と捉え方が違うだけで、通じるテーマもあるかもしれない。


まずは夫と探偵のやりとりから夫婦のこれまでが、次に夫と妻のやりとりから妻と探偵の過ごした時間が明かされるという前半部分のかっちりした構成が、いかにも70年代らしく感じられた。



「彼女は暮らしを変えたいと望み、ぼくの教育に生き生きと応えた。ぼくには、一緒に行動する相手、ものを教える相手ができたんだ」
「彼女の方は、あなたに何か教えたんですか?」
「ああ、新しいダンスとか…」


以前、ベリンダは、チャールズが目にしたことのないであろうダンスを踊ってみせた。手招きに、チャールズも少し真似てみるが、結局は自分の得意な格好に持ち込み、二人は作中初めてのキスをする。何となく、ねじふせられたような感じを受ける。



「支配じゃなく、愛することはできないんですか?」


世界を放浪してきたベリンダに対し、チャールズは上流階級のお坊ちゃま。母親は(父親は出てこない)、飛び出して行った妻を案じる彼に「家出なんて皆してるわよ、残念ながら全員戻ってくるけどね」と言う。結婚なんてそんなものだと。それじゃあまるで、海水で満杯になった船から、桶で水を汲み出し汲み出し、死んでゆくようなものだ。誠実な生き方と言えるだろうか?
この作品が作られた1972年といえば、うちの両親が結婚した頃。当時の日本、もしくは「世界」の恋愛って、どういうふうだったんだろう?「毎日新しい喜びが欲しい」というベリンダの感覚は、今の私にはきわめて「普通」に思えるけど、当時はどう捉えられたのかな?何かに対するアンチテーゼみたいな意義もあったんだろうか?


白づくめの探偵クリストフォルは、始めキューピットのように思えるけど、やはり人間だった。三人のやりとりを聞いているうち、気が合うから、心安らぐから愛するわけじゃない、気が合わないから愛さないわけじゃない、そういう「気持ち」の不思議さ、切なさ、面白さを感じた。


この映画は、かなり露骨な「食べもの映画」でもある。まずはクリストフォルがしじゅう頬張ってる、マカロンのでかさに驚かされる(笑)
ある夜、レストランを探してさまようチャールズは、店の窓越しにウエイトレスのベリンダと出会う。しかし彼女のミスにより、(作中では)夕食を取ることができない。次のデートでは、自分好みのレストランで、彼女のために胸踊らせながら選んだであろう、「インドで流行ったアクセサリー」をプレゼントする。
それ以降…結婚という「契約」をした後の彼は、食事をしない。一方ベリンダとクリストフォルは、一人の時も二人の時も、主に甘いものを食べ散らかす。しかしラスト、共に旅する相手を見つけた二人に対し、一人になったクリストフォルは、苦いものを口にし顔をゆがませ、未来に期待する。チャールズのほうは、笑顔とともにポケットのマカロンを頬張る。


私も「フォロー・ミーごっこをしたら面白いかなあ?と思うけど、せいぜい半日でいいし、どっちの役でもいい(ベリンダとクリストフォルは役を交換して楽しむ)。そう思うってことは、今のところ恵まれてるってことなのかな。