のら犬


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2022年フランス、ジーン・バプティスト・ドゥランド監督作品。

思い通りになるのは飼い犬のマラバールだけ。でも思い通りになる存在なんて必要だろうか、なぜ必要なのか省みなきゃならないんじゃないだろうか。冒頭より殴るぞと暴力を口にするミラレス(ラファエル・ケナール)だが実際に暴力をふるうことはない。本当に拳をふるうはめになった時、犬は死んでしまうのだった。それは彼からドッグ(アントニー・バジョン)へ、ドッグからその外へと注がれ流れていった暴力性ゆえとも言える。それに気付いた二人は最後、それを「芸術」でもって葬送するのだった。

ガブリエル・フォーレノクターン第6番にこれは美しいものを欲している者の話だと予感する。テンペスト第3章からはこれが孤島に流された恨みの物語だと受け取ることができる。父を亡くし画家の母と越してきた荒野に囲まれた田舎町、道に人影はなく仕事もなく、麻薬を売るが自分はやらない。免許を持つ料理の腕を振るっても母の反応は薄い。ミラレスが「ピアノの先生」(ピアニストのエヴェリナ・ピッティ)の演奏をクッキーの缶片手に食い入るように見る姿からは、芸術を心得ている彼が自らを省みて生まれ変わろうとする兆しが伺える。

オープニングの一幕からして私には、ミラレスがドッグに自分と同じようであってほしいと願っているように思われた。でも彼はそのようにならない。ミラレスにとりそれは、ドッグはおれと違ってだめなやつ、こんな町にお似合いのやつだからということになる。エルザの出現によりその関係のいびつさが露わになる。やはり人間関係は二者の間だけでは完結しえない。「ドッグはまだボールを追わない」なんて冗談の時期を過ぎるとミラレスは自身の存在意義につき不安に駆られる。

ここでの女性はいい意味で物語の中心から外れされている。無責任に掘り下げることなく「普通」の女性を描いている。エルザは他愛ないことを一緒に楽しめるドッグを休暇の間のボーイフレンドとして選ぶ。「犬には謝らない」なんてセリフもいい。ミラレスはそうした現実の女性を「道で拾えるようなくず」と否定し「棺に抱き合って埋葬されたい女じゃなきゃ要らない」と語るのだった。理想を追い求めどん詰まっている彼が最後に居場所を見つけるも、そうそううまくはいかない、それでも「やっている」ラストシーンが心に染みた。