冒頭、テリー・フーリー(リチャード・ドーマー)がベルファストの「爆弾横丁」に店を開くにあたって持参したレコードで殺し合う二派を「買収」する場面を何とも面白く思ったものだけど、ここに彼のずっと変わらぬ芯があるのだった。素晴らしい音楽は争いを駆逐する、だから皆が聞くべきだ。その精神でもって突っ走る。父親いわく「わしは12回落選したが友人もできたし選挙の度に得票数が増えた、勝利は他人が決めるものじゃない」。金が心の自由を奪うという信条含め、この二人、何と似た者同士であろう。
本作からは、他の映画にはあまり無い、今が瞬く間に過去になっていく感覚を受ける。契機と呼べる様々な場面が次から次へと昔のことになっていく。とはいえそれは今を吸収しての新たな今の連続である。テリーがルーディの叫びを聞いていわば開眼した晩のベッドの場面から彼とルース(ジョディ・ウィッテカー)の間に距離ができるのは、二人が同じものを吸収しなかったからかもしれない。だから道が分かれていくのだ。
アンダートーンズの「Teenage Kicks」をひっさげてロンドンに乗り込んだテリーは、「ベルファストのバンドの曲なのに銃も戦車も出てこないなんて、こいつらの頭はお花畑か」と軽くあしらわれる。世界の真ん中にいる奴らに隅っこの、抑圧されている人間の気持ちは分からない。「当時のベルファストで活動したバンド、変な服装に騙されちゃいけない、彼らは本物だ、彼はシンリジィに入った、彼はウイングスに入った、そしてマイアミ…」ああいうところに生きる人々が何を求めているかなんて。
映画の始め、自分で掛けたシャングリラスの「Past, Present and Future」を背にルースに名前を教えてもらったテリーは「君が最初の招待客だ」と言う。奇妙な文句だと思っていたら、映画の終わり、彼はアルスターホールに「史上最多の招待客」を入れてしまうのだった。楽屋裏での彼女への「ごめん」はそのことへの謝罪に違いない。君以外にこんなに招待しちゃう男なんだ、ぼくは、という。私だってあんなに「客」の多いパートナーは正直嫌だ、「私」か「私達」の客でないならね。
この映画、昨年のイベント「アイルランド映画が描く『真摯な痛み』」に行かれず逃したのを一般上映にてようやく見たんだけども、岡さんの企画絡みで言えば…尤も全てがこの映画の精神に貫かれていると言えるけれど…グッド・ヴァイブレーションズのその後が「そして」と「しかし」で語られるところで、アンナ・ボーデン&ライアン・フレック監督「シュガー」の最後の「元」「元」「元」を思い出した。だめだと思えば場所を変えたりやめたりまた始めたりする、私はそういうのが好きだ。