見ながら同居人ともども一時間そこそこのように感じたものだけど(実際の上映時間は90分弱)、この映画については、それって、年を取ると以前よりも時が経つのが早いというあの感覚に似ているように思う。
映画は不特定多数のがやがや声に始まる。フランク(キアヌ・リーヴス)がテレビをつけて、俺は皆の声なんて聞かないぞという儀式をやっている。それは「ザ・コンサルタント」のベン・アフレックの光や音に耐える訓練にも、あるいは「地球に落ちて来た男」のボウイの人類の全てを吸収する勉強の逆のようにも見える。この際の「カーッ!」を違う用途に使ううち、映画の最後に儀式は形だけのものとなる。
「デート&ナイト」「ゲーム・ナイト」など、アメリカ映画で私がいい!と思うカップルは皆、外食の席で周囲の客を肴に好き勝手に喋り倒すものだけど、本作のフランクとリンジー(ウィノナ・ライダー)もまずリハーサルディナーにおいて年長の男女を槍玉にあげる。この時点でぴったりだと分かる。機内でスナックを食べての同時の「不味い!」でリンジーが少し心を開き、彼女の「夢なんて覚えてない」でフランクが多分、少し心を開き、ベッドで場所を入れ替わりもし、徐々に「体勢」が変わってゆくのが見もの。
この映画にはキアヌ演じるフランクとウィノナ演じるリンジーしか出てこない。キャストが、という意味だけじゃなく、ある時間、ある場所を本当に二人だけで過ごす話なんである。がやがやの中から互いに互いが立ち上がってきて、話し続けた結果、消えなかった。カップルであっても、いやカップルであるからこそ社会と繋がっていると訴えてくる映画が目立つ近年、この描写がとても新鮮なものに思われた。