ヘンリー・フール/フェイ・グリム



ハル・ハートリー復活祭」の初日に「ヘンリー・フール」三部作のうち二作を観賞。一作目のみ遠い昔に見たことがあるけれど、殆ど覚えていなかった。


▼「ヘンリー・フール」(1997)では、鮮やかな転換の後の飛行場での「あなたを待っています」で感傷的にも涙があふれたけれど、そんな、泣くこたないんだよね、そういう映画だった。勿論例によって、これが女同士ならどうだろうと思いながらも見た。


上映後のトークでこの企画を実現された方が仰っていた「突然複雑になった」には私も見てまずそのことを思ったし、「日本ではシネ・ヴィアンのクロージング作品だったためミニシアター文化の終焉も感じさせた」には、映画自体にも(恐らく今だから感じる)「世紀末」の匂いがあったと思った。なぜ「復活祭」なんて名前なのかという理由も、直接は語られなかったけれどちゃんと伝わった。「一人」で映画を見てちゃ分からないことだ。


「なぜ僕の名前を?」「(黙って名札を指す)」とはよくある場面だが、この映画は私には、制服の胸の名前が逆転することで、それまで隠されていた世界の汚いものが露わになる物語に思われた。冒頭、「立て」と現れるヘンリーを始め、「ファックしたい」と外に出る姉のフェイ、「そのうち尻が垂れる」と吐き捨てる母親、皆がいわば語り立てるが、清掃人であるサイモンは「面倒は避けたい」という意思表示の他は嘔吐するのみで話をしない。彼が物を言うようになると問題が目に見えるようになる。「ヘンリー・フール」がそれらをひっかぶるが、皆に助けられる(群像劇めいてもいたのがここで活きる)。


認められた薄い筆致が何度か映るが、初めての読者であるヘンリーとそれをのぞきこむサイモンを始め、皆がそれを読む時、ノートはこちらに背中を向けており中味が見えない。形容する言葉ばかりで実のところは分からないというのは、私達の世界の掴み方のようだ。サイモンの詩は教育委員会やPTAから批判されたが教師達には「ものを考えるいい機会」と評価された、という何気ないセリフが面白かった(これもトークで言われた「ハートリーの映画はセリフが面白い」ということの一端、いやこれは「セリフで説明される映画の内容」か)



▼「フェイ・グリム」(2006)には、そうだよね、パーカー・ポージーはリンクレイター女優だもんね、と改めて思わされた。この三部作は(二作目までしか見ていないけれど)「Before」シリーズや「Boyhood」みたいなものだものね。


ダッチアングルでの切り返しの繰り返しが、私には上下を振る噺家さんを見ているようで、不安定な感じというより「荒唐無稽」を飲み込むためのオブラートとなった。尤も家に戻ったサイモンが胸に付けている名前が、これまた私には前作の最後にヘンリーの側に反転し表出した世界を再び封じ込めていることのしるしに思われ、どんな話であろうと飲み込めたものだけども。


映画が始まるやでかでかとクレジット、というよりまさにその名の出るパーカー・ポージーは、前作で「いくつに見える?」と口にしていた人間とは思えない程のいい女。「ポケットのないコート」の似合う彼女のお着替え劇場でもある本作において印象的なのは、「イスラエルのスパイになるって悪いことなの?」「ロシアってアメリカの敵なの?」といった世界情勢に無知な姿である。それは(フィクションにありがちな)「女の馬鹿さ」ではなく何か根源的なもの…「夫を探しに来た」の一言もそう、「女の愛」というより何か違うものに感じられた。


前作のサイモンの「(君…ヘンリーがそうしたと言っていたように)目を潰してやるって言ったんだ」には笑ったけれど、本作でのヘンリーの「お前の子孫もダメにしてやる、俺はそういう男なんだ」にはじんとしてしまった。あれが二作を通す「串」に思われたから。また前作で「出版界の大物」として登場したアンガスは部下の「紙の本など廃れる」との意見に「テレビで本を読んで面白いか」と返し「いや双方向のメディアなんです」などと言われていたが、こちらでは少々コンピュータに慣れているようで、それも可笑しかった。