「Mr.&Mrs. スミス」をとしまえんで見た時には、アンジーの監督作目当てでイメージフォーラムに出向く日が来るだなんて…想像するわけないよなあ、などと思いつつ観賞。別にイメフォじゃなくても、どこで掛かってもしっくりくるような感じの映画だった(面白いという意味ではない)
オープニング、陽を背に登場する数機の航空機の中で、若い米兵達が「クリスマスのイルミネーションにしてやるぞ!」と敵地(この場合、日本占領下のナウル島)への爆撃を始める。
しばらくセリフ無しで進むこの一幕の、美しい画やぽんぽん軽快なカット割が、彼らがこの仕事に慣れていることを思わせる。この、「見えない」相手になら何だって出来てしまうということを映画の終盤に思い起こすんじゃないかと考えながら見ていたら、確かに後半の渡辺伍長(MIYAVI)と顔を突き合わせての長い長い描写はそれと対になっているように、いやたまたまそうなっているように思われた。
零戦の攻撃を受ける中、故障したB-24を直そうと頑張る一人の若者、ルイ(ジャック・オコンネル)の回想が始まる。第一の回想シーンは「赦すことの大切さ」を説く神父の「汝の敵を愛せ」に始まり、兄の「苦しみは一瞬だが栄光は一生」との言葉に終る。
「イタ公」と苛められていた少年が「追われてもいないのに走れないよ」と言いつつも、兄の応援に支えられ、走ることの楽しさに目覚めてゆくその「感じ」、女の脚を下から覗いていたのが笑顔を向けられるようになり、やがて駅のホームで数えきれない程の人々から旗を降られるようになる、また息子(ルイ)は母をずっと見ているが(後の「卵を12個も入れるんだ」がいい)母の方は初めての試合じゃ心配でふと顔を伏せてしまう、なんて描写がいい。
後半の収容所のくだり、すなわちルイが渡辺に苛められるくだりは私には全然ぴんとこなかった。この映画はなぜあそこまで彼ら二人の描写にこだわるのか?「汝の敵を愛せ」がテーマだからだとしても、時間を掛けている割には、いや「敵」ってわけじゃないんじゃない?という程「ぬるい」。ルイが家族と再会した場面が「(本物の)写真」に置き換わるエンドクレジットには、渡辺の「その後」も出るが、MIYAVIとは似ても似つかない風貌で…そもそもMIYAVIの佇まいは華麗すぎる…どうしたって戦メリに影響を受け過ぎたのではと思ってしまう(笑)
ただ、始め「敵」は目に見えず、やがて(「日本兵」として)「影」で登場し、その後も何度も「影」としてルイを脅かすが、最後にはもう影じゃない、陽に照らされた二人の男の姿となる、あの画はいいなと思った。
二人の関係に執着しすぎとはいえ、作中では渡辺以外の日本兵の表情(ご丁寧に、地図を隠していた捕虜を渡辺がぶちのめす横でいたたまれない様子の部下の顔もしっかり映る)、松葉杖の者は整列せずに座っていると分かる画、空襲後の収容所付近の一般市民の悲惨な様子などがきっちり描写される。
ちなみに渡辺以外の名も無い日本兵達の演技というか表情が私にはとてもしっくりきたので、どういう演出をしたんだろう?と考えた。日本語が「カタコト」じゃなかったから、あの役者さん達は、「日本人」の私と共通の、表情についての認識を持っているのだろうか?とも考えた。