最近見たもの


▼ドリーミング村上春樹

東京の夜景と一体になって翻訳に勤しむ、励む、いや何と言えばいいか、ともあれ翻訳家メッテ・ホルムの後ろ姿に続き、デンマークでの彼女のラジオ出演の様子が映る。「日本人にとって平行世界は身近なものなのですか」。村上春樹の本を読んで、訳しているから(現在は日本に住んでもいるそうだけど)、日本を知っているとされる。すなわち本はその国の人々の代弁をしているということになる。

芦屋のバーの客や鮨屋の主人とのやりとりには少々違和感を覚えてしまった、というか口を挟みたくなってしまった。「世の中には色んな人がいると訴えるアーティストがもっといなきゃ」と言う村上春樹より一回り下の世代の男性に対しては、いや、いるけど届いていないんだよ、と。お鮨屋さんに対しては、いや、若い人はお寿司、食べられないんだよ、と。なぜそんなことを思うかというと、やはり「代弁」の問題だろう。そんなことを考えた。

ガリーボーイ

他人同士と見えた二人が夫婦・恋人だった、という登場のさせ方を私はカウリスマキの「浮き雲」方式と心の中で呼んでおり、この映画も使っていたので楽しい気持ちになるも、程無く彼らはそうしなきゃならないのだと気付いて少々恥じ入った(勿論それを活かした楽しいシーンとも言えるわけだけど)。この二人、ムラド(ランビール・シン)とサフィナ(アーリアー・バット)の家の楽しくなさが強烈で、そこでは抑圧している側の人間だとて抑圧下にあるが、どうしたってまずお前からやめろよと思ってしまう。

冒頭とある場面で時が止まっているような奇妙な感じを受けたものだが、最後、どうにもならないことはどうにもないままタイトルが出てすとんと終わった時、この映画の独特な時間感覚はそのためかと思った。フィクションの中で方が付くわけがない、動くのは今からなんだと。「愛撫もろくにできないくせに/私は男を連れ込んだりしない」と叫ぶ母親をムラドが抱きしめるところでは不意にケン・ローチの言葉を思い出した。何かを作り発表するとはその手段を持たない者の代弁であるべきだと。作中のガリーボーイは母の怒りの熱を世に放ったろうか。少なくとも映画はしていた。


▼ブルーアワーにぶっ飛ばす

私は今の同居人と会って帰省の頻度が高くなった。親の命が危なければ自分の命を顧みず助けるだろうが親が死んで初めて自分は自由になるだろう、という気持ちを分かってくれる(この文の通りに言って分かってくれる)、「本線」をゆかない人間、「合流ってむずいっすよね」の人間はそういう相手に背を押してもらいそこに出るのだ。尤も合流しなきゃならないわけでもあるまい、解放されるには他の方法でもいいのではという気もするけれど。

言葉に情報が込められまくっている映画を見ると、母語以外による映画を見る時、いかに開いた掌に受け止める砂のように多くがこぼれ落ちていることだろうと思う。しかし作品における言葉とは違うステージにいる者の意図…こういう人はこういう言葉を使うだろうという観念でもってそこに出現するのだから、このようなやり方で情報を込めまくっているこの映画はかなり際どいとも言える。

▼英雄は嘘がお好き

「三流役者のくせに!」「私が大尉なのに!」とエリザベット(メラニー・ロラン)が叫ぶ場面があるけれど、これは作者と演者の間で行われる争いと融和の話である。物語において子どもは死ぬべきか助かるべきか、ハンセン病患者について語る時「あわれな」と付けるべきか付けずにおくべきか、なんて考えの違いが面白い。二人による「ヌヴィル大尉」が時に彼らの手を離れて飛びまわったり、また支配下に置かれたり、なんて物語の生命力も面白い。

「君の取り分は10パーセントだ」「50パーセントよ」「女なのに?」「今は中世じゃない、1817年なんだから」とのやりとりが可笑しくも「今の映画」として作られていることを明らかにしているが、いわばクライマックスに置かれたコサックの襲撃に際してヌヴィル(ジャン・デュジャルダン)のやることといったらどうだろう。私には現代的には思われなかった。