禁じられた歌声



オープニングは懸命に走る、細いガゼル。それを追うのはトヨタピックアップトラック(何故あんなに大きく社名を入れるのか?などと思う)に乗り、銃を撃ち捲る男達。作中最初のセリフは「殺さなくてもいい、弱らせろ」。次いで彼らは並べた土偶を狙い、動かないそれらをも執拗に撃つ。破壊された「像」達が映され、この一幕は終わる。


このオープニングに苦手な類の「分かりやすさ」を感じていたら、映画はその後もそういうふうに進む。言いたいことのために映像がある(ということが表に出てしまっている)ように私には感じられてしまった。予告で見て印象的だった、裾が長いにも程がある衣装を纏った女性が車の前に立ちふさがる画はどんな「場面」なのかと楽しみにしていたら、「場面」じゃないのでがっかりした。ただただ、このようなことが起こっていますと畳み掛けてくる。切り上げ方も省略が過ぎる。そういう映画は好みじゃない。


やがて、どの「場」にも同じ要素があるのが見えてくる。それは「抵抗」である。魚を売るのに手袋をしろと言われ「この手を切り落とせばいい」と差し出す女、前述の立ちふさがる女、ボール無しでサッカーをする男達。あんなふうに抵抗できるものなのか?さっさとばっさりやられていしまうのでは?と思うも、そもそも私はこの地の人々がどういう性分を持っているのか知らないのだった。それに「映画」で屈するばかりの人間を描いてどうする、とも思う。


作中唯一「ストーリー」を持つ一家もやはり「抵抗」している。「ジハーディスト」に占拠された土地から皆が避難する中、町外れに引っ込むもそこに留まることがそうだ。夫は「逃げ続けてどうする」と言うが、妻は娘が他の誰とも会えないこと、夫の留守中にだけ「あいつら」がやってくることを恐れている。牛が殺されたこと、自分が犯人を殺すこと、自分が殺されること、すべてが神の定めた「運命」だとするのは私には理解できないが、そういう人間のありかたもあるのだと思う。


少女が冒頭、出掛ける父親を送った後、母親の元に戻るちょっとした時に鼻歌を歌うのが心に残った。作中の笑いや悲鳴がふと「音楽」に感じられることもあり、思えば「どこからが『音楽』か」というのは、「言いたいこと」と「映像」とは分けられるものなのか、という問題に似ている。ところで見逃したんだけど、彼女が「運転手の方はいい人だ」と言う、母親が「誰に聞いたの」と問う、それへの答えは何だっけ?なぜそう思ったのか?