ペルシャン・レッスン 戦場の教室


強制連行される荷台でジル(ナウエル・ペレーズビスカヤート)がサンドイッチを隣り合わせた男の盗んできたペルシャ語の本と交換するオープニング、相手の「戦時中には何でもありだ」とは「汝、盗むなかれ」に対する言葉だが確かにそうだと思っていたら、ジル以外は全員直後に銃殺される。「何でもあり」とはそういうことだと確信する。彼は仲間達の死体、あるいは死の行列から摘み出されて何度も生き残ることになるが、そこに死んだ人々の命が凝縮されている…ようには見えない、そんなわけがない。

元となった短編小説の原題は『Erfindung einer Sprache(言語の発明)』なのだそう。始めのうち、なるほどこんな関係の二人の間に言葉が作られていくという話なのかと見ていたらそうではなく、コッホ大尉(ラース・アイディンガー)はジルからペルシャ語の単語として強制収容所に入れられた人々の名前を教えられることになる。見ているうちサスペンスは、自由な時間は元より筆記具もないジルが自分で作った言葉を覚えていられるか否かというより大尉が毎日覚えさせられている言葉の語源に気付くか否かという方に移行する…しかし気付くはずがない、殺人者は殺す者の名前に興味を払わない。『アメリカン・ユートピア』(2020)の頂点がジャネール・モネイのHell You Talmboutの名前の連呼だったように、あるいは他の映画でも見たように…って何だったか忘れたけれど、今改めてこのことが強調されているんだと思う。

(以下「ネタバレ」しています)

本作が注視するのは毎度忘れられない顔つきのナウエル・ペレーズビスカヤート演じるジルよりもコッホ大尉の方である。冒頭、大尉と部下達の一幕がしばらく前にTLで流行っていた「癇癪を起こすカイロ・レン(と困る部下達)」に被ってしまいコメディなのかと見始めたものだけど(確かにコメディでもある、ナチスにもそういう側面はあるという映画だ)、進んで入隊しておきながら今やドイツ人にとっては「エキゾチック」なテヘランでレストランを開くことを夢見るばかりの彼の「人間性」が垣間見えれば見えるほど、そうは言っても一体なぜ自分に未来があると思っているのか不思議でならなかった(「わたしは殺人はしていない」「実行したやつにご馳走を食べさせてるのに?」)。映画の終わりに彼がイランに入国しようとしてジルが教えた言葉…収容所の人々の名前を口にして捕まるさまは、殺された人達の魂が彼を縛り上げに掛かっているように見えた。