
オーストリア映画週間2024にて観賞。2024年オーストリア、エリーザベト・メナッス脚本、ルート・ベッカーマン脚本監督。ファヴォリーテン地区にある「ウィーン最大の小学校」のいちクラスの2021年から2023年まで、2年生から最終学年の4年生までの3年間を追ったドキュメンタリー。登場する児童達が作ったのであろう「自分を表すビル」(あれいいね!)にそれぞれの名前が読み上げられるオープニングに、憚りながら外国の名前を(無理やりカタカナ表記にして!)覚えるのに始まる自分の仕事を重ねて感じ入ってしまった。
今年に入って『ぼくの好きな先生』(2002年フランス、ニコラ・フィリベール)を再見した際にも思ったけれど、学校映画の特徴とは常に中途であるところだ(ドキュメンタリーは、物事は全てそうだとも言えるけど、学校ものを見るととりわけそれを感じる)。本作の冒頭、日本的に言えば朝の会に遅れてきた子が「遅刻してごめんなさい」と言い先生が「どうして遅刻したの」と聞くのも繰り返され身に付いたことなのだろう。各自で課題を終えたら先生の机に並んで指示を受けるのもそう、全て積み重ねの表れなのである。
次いで映し出される色々な類の「発表」では、誰かの発表時に他の児童は自分も発言したい一心で挙手しているか手元のゴムやら何やらをいじったりとだれているかという、一対一のやりとりに留まり教員が見るとおそらく焦れてしまう時間が結構長く収められているが、これもまたドキュメンタリーの面白さ。こうした場面を始め本作の教室で行われていることは私から見ると実に「普通」で、全員が移民の子どもだということから主に来るあれこれが日本と随分違うのに、なぜだかこれまで見たどの学校ものよりも、学校とはどこも同じだと思わされた。
冒頭おそらく管理職の男性が中庭に座った大人達…保護者かと思いきや教員達…にプリントを配る(後でメールでも送るとのこと、私もこの二重型が一番助かる)。教員室(職員室)が一切映らない学校ものは珍しい。『キッツ先生の子供たち』(2016年オランダ、ペーター・ラタスター)のように児童の登校前の仕事の描写もなく、子どもがいる場のみでほぼ構成されている。子どもは学校の先生の仕事に苦労や問題があると知らない(そもそも「仕事」をしていると思っていない)。それでこそ子どもなんだと思う。しかし例えばこの学校ではカウンセラーやドイツ語を教えるスタッフを始め産休に入る担任のイルカイ先生の代替教員も見つからないため、学校が大変であることが子どもに漏れてしまっている。代替がいないことに触れた先生の涙ながらの「あなたたちが悪いんじゃない」に私も涙が出そうになってしまった。
映画のための特別な宿題として「ケータイを横にして」動画を撮るよう指示が出る。インタビューというのもよくある活動だけど、これがなかなか面白い。「結婚するならどんな人としたい?」にある男子は「目が青くて健康で…」と具体的な条件を挙げるがある女子は「夫と子どもの世話に追われたくない、冒険いっぱいの人生を送りたい」。「文化とは?」と三人の男子が話す際の「文化とは『たまにやること』」には意表を突かれた、私があの場にいたらなるほどー!と「日本人がよくやるジェスチャー」をするだろう。しかし皆が撮った臨場感ある画をスクリーンいっぱいに見たせいか少し酔ってしまった。まさかこの映画で酔うとは(私はとても画面酔いしやすいので殆どの人は大丈夫だと思う)。