アデル、ブルーは熱い色




「悲しいなら、理由があるんだよ」


冒頭からしばらく、「恋」の始まりは、あるいは「恋」とは「見る」ことだというのが強調される。通学時に電車内で眠ったり脇目も振らず走ったりするアデル(アデル・エグザルホプロス)の姿、テレビを見ながら(互いを見ずに)食事をする両親の姿。その日常には「見る」ものが無い。こうした中で、アデルとエマ(レア・セドゥ)がすれ違い様に視線を交わし、「見る」ものが生まれる、ということが浮かび上がる。高校の国語(文学)の授業では、「マリアンヌの生涯」に描かれた「一目惚れ」について教師が語る。
今年は「17歳」で初めてオゾンにがっかりしたものだけど、本作の冒頭のアデルと上級生とのセックスシーンには「17歳」の海岸のシーンを思い出した。あそこだけはすごかったもの。あれはああいうことだよね、相手を「見る」ことのない(見ているようで見ることのできない)セックス。


アデルは「文学を学ぶ高校生」でありながら、しかも「マリアンヌの生涯」…読んだことが無いけどおそらく「クレーヴの奥方」のように心理描写を楽しむ小説を好んでいながら、自分の心を言葉でもって理解していない。上級生とセックスするも「なんだか変」で泣いてしまう彼女に向かって男友達が言うのが、冒頭に挙げたセリフ。彼女の意識や言動の理由が、他者とのやりとりで解き明かされ、アデル自身がそれを「学んで」いくのが面白い。
「本はたくさん読むけど、授業で解説されると想像力が途絶えるから嫌」なのと、「一日中でも食べていられちゃう」のは、アデルの中の同じ部分の表れだと思う。わけもわからず味わい尽くす。自宅で嗚咽しながらベッドの下のお菓子を食べる時、彼女はその理由を考えもしないだろう。
終盤のエマとの「修羅場」に至っても、アデルは「(嘘つきと責められ)なぜ黙っていたのか説明できない」と泣きじゃくる。しかし時が経った後のレストランや展覧会の場面では、仕事に対する自分の気持ちやエマの作品についての感想を言葉で述べる。前からそうだったなら、と思うけど、そうじゃない時期を経てそうなったのだ。


本作は「学生映画」…登場人物が「学生」であることに意味のある映画だ。アデルとエマはまず「学生」。初めて会話を交わす際、美術学校に通うエマは自分が学んでいる「美術」について一席ぶつ。二人は学び得たものを考えや言動にダイレクトに放出する。それは学生の本分だろう。更には映画自体も、例えば授業で扱われている小説のような体裁を参照しており、「自然」な映像が「人工」的な物語の中にかっちりと収まっている。
アデルが、始めは「学生」の側なのが、最後には「教師」の側に居るのも面白い。後者の方が描写が多く、フランスの幼稚園や小学校の授業風景が存分に見られるのが楽しい。読み書きを学ぶ様子ばかり映るのは、それが「基本」なのか、選択による「抜粋」なのか、どちらだろう?
「新米教師」のアデルの教室の、てんでばらばらの子ども達の姿は、世界は自分(アデル)とは「違う」ということを表しているようだ。しかし彼女は気負わず世界に働きかけていく。エマは「勉強しているうちにやりたいことができる」と言うけれど、仕事をしながら変わっていくこともできる。多分アデルはそういう「タイプ」だ。


二人がそれぞれの家に招かれるあたりから、別れの兆しが感じられる。絵画に囲まれ牡蠣を食べるエマの家と、「安定した職業の大切さ」について話を聞きながらボロネーゼを食べるアデルの家と。予告からは想像し得なかった、本作の「階級の違い」という要素は、(日本じゃニュアンスが少し違ってくるけど)どちらの側にも居付くことの出来なかった、いや出来ない私にとって面白いものだった。
アデルの寝室で、エマは彼女を「20点満点で14点」と笑う。「もっと実践しなきゃだめ」。サルトルを読んで「『アンガージュマン』が大事」と言うエマと、「分からないけどそう思う」と言うアデルの、「行動」の意味が違うのが二人の不和の出発点だ。アデルにとっての「行動」とは学生デモに参加することだけど、エマにとってはそれでは足りず、アデルが(「同性愛」なんて眼中にない)両親に反発しないのも、拡大すれば「自己表現」活動をしないのも、「行動」していないということになる。自身を「哲学の世界」なんて名乗るなら、「自己表現」をしない自由くらい認めてくれよと思うけど、エマだってまだ若い、若かったんだろう。


もう青い髪じゃないエマとアデルの一幕には、はっきりと暗雲が立ち込めている。エマのパーティのためにアデルがボロネーゼを作り、それを客達がむさぼるシーンはひどく怖かった。アデルが「今が幸せ」なのは「本当」だろうけど、彼女もエマもそうと知らぬ内に、言ってみれば「エマ」的なもの全てがアデルを食い尽くしているようで。友人が口にしたエゴン・シーレを知らない彼女に、エマは一言「教えたじゃない」。給仕してばかりのアデルは、エマの友人に自分も食べるよう勧められても落ち着かないが、とある(「芸術家」ではない)男性がボロネーゼの材料(=料理)や仕事といった「生活」にまつわる話を持ち出すと、ようやく腰を下ろしてパスタを食べる。
振り返ると、「主人公」たるアデルをわざとそういう中に置いてるんだろうけど、両親はああいうふうで、学校にもああいうふうな友達がいて、好きな人の世界には全然馴染めなかったなんて、寂しくてやんなっちゃう。エマと別れた後のレストランで「今でもいつも独りぼっち」と言う彼女に心が沿って泣きたくなる。それでもまだ、アデルの人生は続く。私が「幸運の兆し」のスティールパンを鳴らしたい。



「いつも泣いてるの、わけもなく涙が出て」
「知ってる」