バーニー みんなが愛した殺人者



リチャード・リンクレイター監督×ジャック・ブラック主演の前作「スクール・オブ・ロック」は、超満員の武蔵野館で(劇場貸出の)座布団敷いて観たものだ、とても楽しかった。あれからもう10年か。


何というか、自分の映画の見方について考えてしまった。
39歳の葬儀社員バーニーが81歳の富豪女性マージョリーを殺害したという実在の事件を元にした本作を紡いでいるのは、「どうすればいいか分からなくなった二人」の愛憎の顛末ではなく、当のテキサス州カーセージの人々の証言だ。体感としては「事件」発生が中盤あたり、「物語」は以降も続く。
さてエンディング、「本物」のバーニーとマージョリーの写真が数枚映し出された後、「現在」のバーニーが登場、カメラが引くとJBと向かい合って話している!というのに心踊らされていると、その後、作中「証言」していた人々が「本物」だったことが判明する。最後に肥料?の山に腰掛けたオヤジが自作のバーニーの歌を熱唱しておしまい。そういや「スクール・オブ・ロック」も最後の最後はちょっとしたミュージシャンによる演奏だったなと思い、楽しい気持ちになる。
「作り物」だと思っていた人々が「本物」だと分かった途端、彼らの言葉に自然に笑いがこぼれてしまった。「本物」ならば何でもアリ、何でも受け入れられるわけだ。自分が「映画」に対していかに構えているか実感した。


「バーニー」という事象、を描いてるという意味では、先日久々に見返した「シリアル・ママ」と通じるところがある。裁判所の外の様子なんて似ており笑ってしまった。「シリアル・ママ」じゃ身内がグッズを売ってたけど、本作じゃ傍聴に出掛けた町の人々がお弁当を食べている。いずれにせよ、ちょっとしたお祭り状態。
しかしシンプルな「シリアル・ママ」に比べ、本作にはちょっとした「引っ掛かり」がある。例えば町民の一人が「マージョリーは彼(勧誘に訪れた別の町民)をほうきで追い払ったのよ」と言う、その後にその通りの映像が挿入されるとおやっと思う。例えその内容が「本物」であろうと無かろうと、「証言」であるということがノイズとなって、いわゆる「神の視点」ですんなり見られなくなる。それは必ずしもマイナス要因ではなく、そもそも人々が皆「本物」かどうか、その証言の内容が「本物」かどうか、なんて分からない、ということの示唆のようにも思われる。何だか手が回りすぎというか、器用が過ぎる感じがしないでもない。


JBは「スクール・オブ・ロック」同様、歌いまくり。まずは車を運転しながらカントリーを一発。「スクール〜」でもあったけど(メイキングの方だっけ?あやふやになってしまった)運転しながらの歌唱って、どこを見ているか分からず不気味な感じがする。それがJB、ひいてはバーニーのキャラクターに合っていた。
これに限らず、バーニーが歌ったり詠んだりする場は、状況からして当たり前といえば当たり前なんだけど、舞台や壇上であって、その目は何にも、誰にも向いていない。だから老女達は彼を自分のものにしたくなるんじゃないだろうか、なんて思ってしまった。教会で彼に手を振る別の老女を見て、マージョリーは初めて自分から誘いの電話を掛けるのだった。


バーニーの「有罪」を確信する地方検事ダニー役に、マシュー・マコノヒー。彼が登場して喋り始めた時点でオーウェン・ウィルソン(=「カウボーイハットを被った自信満々野郎」)が脳裏に浮かぶ。この「元ネタ」のあらすじだけ聞いたら、ベン&オーウェン主演で、いつもながらすっきりしないコメディだね〜という映画になってるところが容易に想像できるけど、リンクレイターの姿勢はそういうんじゃない。JBとマシューってところに意味がある。
ちなみに本作のマシューは(私には!)セクシーすぎて観賞に支障をきたすほど。裁判の場面で彼が手を振り回すたび、ぐっと掴んでにぎにぎしたくなる衝動を抑えるのがやっとだった(笑)オーウェンみたいなキャラクターだから、でもって私はオーウェン大好きだから、ああいう男性が好きってことなんだな。


これも、いやこれが「アメリカ」なのかな(だって冒頭説明が入るように、カーセージは「perfect little town」なんだから)。バーニーが立ち寄る「ナマズ料理とウィンナーの店」(…の皿の上のすごい色合い)。エンディングで「ナマズ料理にぬるいビールを飲むような…」と言ってのける男性は、新たな裁判地となったサンオーガスティンの住民について「歯よりタトゥーの方が多いような連中だ、俺なら車の整備もまかせないね」。実際の陪審員達はというと、JBが洗練されて見えるような巨体に、頭ほどの大きさのコーラを抱えている。テキサス出身のリンクレイターの、ああいうところ、いかにも意地がいい(笑)