ウィークエンドはパリで



メランコリックなテーマにのせて真っ暗な中をゆく、向こうに光が見える、今いるところがトンネルだと分かる…というオープニングから、予告から想像してたのとは随分違うなと思う。それよりずっと面白い映画だった。危険でやるせなく掴みどころが無い。
今年の作品では「ビフォア・ミッドナイト」に通じるところがある。でも「ミッドナイト」に至ってイーサン・ホークのマッチョ化が進み、「そういう人間」の描写という範疇を越えてるよね、とリンクレイターに対して疑問を感じてしまうビフォアシリーズより、私はこっちの方がいいや(ビフォアシリーズには異なる意義があるというのはさておき)


ニック(ジム・ブロードベント)とメグ(リンゼイ・ダンカン)はTGVで進行方向と逆の席に並び、窓際の夫がお茶のためにもたもた立ち上がると妻がそちらに移動する。
ニックが旅先で「話し合いたい」のは「家の改装のタイル選び」について、メグが「話し合いたい」のは「再出発への望み」について。どうなるのかと思いきや、メグはタイルなど夫が勝手に選べばいいと(任せるというより投げやりにではあっても)言うし、ニックは「僕を捨てるのか」の数時間後には妻に「指輪」を贈る。常に光は見える。しかしメグの言動は「私なら絶対やらない!」と思うことばかりだし、ニックはニックで、メグがいなけりゃ生きられないとすがりつつ彼女の嫌がることを意固地に続ける。大体私、ビニール袋を持ち歩く男の人って許せないんだよね(笑)…というような二人だ。


プラザアテネの外にはエッフェル塔の見事な眺め。いわゆる「名所」に行きもするし、画面に映りはするけれど、映画が二人にあまりにぴったりくっついているため、パリの街はよく見えない。「ブレア首相も泊まった」というロイヤルスイートの豪華さも全く伝わってこない。印象に残るのは足元の道や階段ばかり。
代わりに?よく映るのが列車に始まり街角や店内での、周囲の人々。その中において二人は、どこへ行っても世界に二人。その愉悦と苦悩が感じられる。


二人は何度も一緒に「走る」。作中最初のひと走りが、あんなことの後だなんて(笑)このくだり、メグが「外でタバコを吸って待ってて、私のコートも持っていって」と言う時点でこちらには意図が分かるんだけど、ニックには分からない。それは彼と私の距離なのか、映画と私の距離なのか。
終盤、思い掛けない危機に陥った時も二人は部屋から鮮やかに走って逃げ出す…があっさり捕まってしまう。しかし落ち着き払ったもので、また堂々と、静かに逃げ出す。


セックスの話が何度も持ち上がる。冒頭、するしないで軽く揉めた後、息があがっていると思いきや画面に映るのは戸外で階段を歩いている二人。一緒にやることの中で一番動悸が激しくなるのが「階段上り」というのは確かに可笑しい。
「指輪」で頬を傷つけられてしまったニックが「胸を見せるんだ」の場面は、今年見た映画の中で一番の絶妙な空気!その後のメグの胸と膝、更にその後の、明らかに自分のものをいじりながらのニックの「すぐいくから…」もいい(笑)


二人は70年代に若かった。ニックは作中、すなわち「記念旅行に来た先」で何度も当時を語る。「小説を書きたい、出だしは70年代の狂騒だ」「(テレビで放映されている「はなればなれに」('64)のダンスシーンを見て)哲学にかぶれていた時はこれを何度も見た」「君はかつてはフェミニストだった」「僕らの時代の人々は面白かった、ベジタリアンレズビアン」。今は「哲学」に興味が無いのか?(学校で教えているのに?)今だって「面白い人々」はいるのでは?と思うが、「自分の勤めている大学は工場のようなもの」と言ってのける彼には、当時は分断されたものなんだろう。


大学時代の同級生で、今は作家の地位を得ているモーガンジェフ・ゴールドブラム)は捉え方が違う。「いい時代を生きられた、あの追い風を使ってまた風を吹かせたい」。カナッペを旺盛に口に運びながら「今度の妻もそのうち僕の欠点に気付くだろうけど、僕はいつだって求められたい、愛されたい」と言う彼に対し、何も食べず「それは妄想じゃないか」と返すニック。「愛」の概念の違い。
彼らのやりとりに涙がこぼれそうになったのは、これが自分の性分と人間関係との折り合いを付けるのに苦しんでいる人々の話であり、パートナーじゃない二人はその苦闘について開陳し合える、そこにぐっときたためかもしれない。映画自体は妻より夫の方に幾分寄り添っており、ニックの悩みが個人に帰すのに対し、メグのそれは「女」に帰されている気がしたけれども。



「パパは航空券を送ってくるけど、僕が一緒の部屋にいると気詰まりみたいだ」


(こういうセリフがさらっとある映画っていい。モーガンの息子役の男の子、素晴らしかった)