ショーイング・アップ


「A24の知られざる映画たち」にて観賞。来月配信予定とのことで家で見るつもりだったけれど、上映中の『ファースト・カウ』(2019)が面白かったので最新作のこちらも劇場で見てみた。

「食べられたくなかったら出しとくなよ」と言ったのはジョン・マガロ演じるショーンだが、主人公リジーミシェル・ウィリアムズ)の個展において衝撃を受ければ割れるであろう作品の数々が中央にまとめて展示されているのには奇妙さを覚えた。一つ壊れたら全て壊れてしまいそうだ。エリック(アンドレ3000)の管理する窯の近くでボールを持つ人から搬入時に彼女が外に出た隙に作品に触れるスタッフ、鞄を背負った居候を連れて見に来る父親、全てが落ち着かなくさせる。しかし彼らには何の気もなく、ただリジー(と共鳴している私)が勝手に不安になっているだけ、それが新たな不安を呼んでいるだけなのだ。美術に明るい人なら別の見方が出来るのかもしれないけれど、私にはこれは、芸術は…あるいは人は他者と接触すること、時にそれにより傷つけられることを避けられないという話に思われた。

対して隣人ジョー(ホン・チャウ)の作品がその手から離れても危なげなく(リジーの目に)映るのは、彼女が「持っている者」だから、その余裕ゆえである。この話はリジーが壊れた給湯器の修理を頼んでも家主であるジョーに私も個展が近いからと後回しにされるのに始まる。リジーは誰に対しても「電話をかける」側であり、返答がもらえるか否か全ては相手次第だ(そう考えると、ショーンが「おれは電話を返さない男」と決めているのは自らが「かける側」になることを過剰に避けた結果だと言える)。夜中に作品をチェックしつつスナックを口にしているところへジョーがオープニングパーティ―から男性と帰宅した気配に傍らの怪我した鳩…そのぬくもりについ、そっと触れる、ここにライカートの提示する「命」がある。映画はその命が、持つ者と持たざる者が並んで歩くのをただ眺めるのに終わる。

『ファースト・カウ』でリリー・グラッドストーンが演じた女性が仲買商の妻であることに、私はクッキーとキング・ルーがドーナツを買い求める客のすることについて関与しない(強い者が割り込んでも我関せずで売る)こと、更には二人が(牛の所有者ではなく)牛から牛乳を盗ることと同じものを感じた。隣に他者がいる時に語り掛けるか否か、またやることなすことの濃淡は明らかに異なるが、システムの中で弱者だとて強者とシームレスに生きている。本作で人間の思惑から自由なところでただ生きている動物、ここでは鳩が見る人間の姿はまさにそれであるように私には思われた。