さよなら、人類



ロイ・アンダーソンが撮影に4年を掛けたという作品、原題は「En duva satt pa en gren och funderade pa tillvaron」(映画祭上映時の邦題は「実存を省みる枝の上の鳩」)私はこれ、好きだなあ。「面白グッズ売り」といえば血肉となっている「トップ・シークレット」しか思い浮かばなかったのが、実際に見たらそこから離れられたもの(笑)


アヴァンタイトル…という言い方がいまいちそぐわない冒頭の一幕は、博物館の一室。中年男性が鷲から鳩の剥製を見て回る。彼と連れの女性が退場すると、奥の部屋に女性が入って来る。そちらには恐竜の骨格標本。今年の夏の映画には「ジュラシック・ワールド」を筆頭に「ミニオンズ」にまで恐竜が出てきたものだけど、もしかしたら、全ての「奥」には恐竜が居るんじゃないかなんて妙なことを考える。


どの場面にも「奥」がある。タイトル後の「死との出会い その1」など、「奥」が見えていなければ「意味」が無い。ドアが開いていたり、ドアの一部や窓がガラス張りだったり、塀があってもその向こうがちらと見えていたりすることが重要な意味を持つ(「ドアの向こう」が見えることで事情が掴めたり「ドアを閉めてくれ」と言われたりと、「話」に直接的な寄与もする)「絵画的」であると同時に、「映画」においては見ている私もまた「神様」なのだと思わせる。


中盤、ドアも窓も全面ガラス張りの店に「例の二人」が入って来てからの一幕は圧巻。ガラスであることに大いに意味があり、そのことによりこのことが起こったのではないかとも思わせる。先の一幕での「ロッタの歌(仮題)」、そうだよなあ、軍歌もありだよなあと気付いた時のわくわく感。蹴ったり殴ったりだけじゃなく指と指の触れ合いが時を超越するが、「歌」の記憶が、それは奇跡でも何でもない、全ては繋がっているのだと実感させてくれる。この映画では、スマホとレコードプレイヤーが一緒くたに出てきても「妙」な感じはしない。


「男」が露骨に性的に見られる幾つかの話の後に、例の二人が同じ集合住宅に暮らしていると分かる一幕があるものだから、そっか、彼らはパートナー同士だったのかと思う。更に後に部屋は別々であること(隣同士ではなく一つ置いているのが「いかにも」)が分かり、そっか、「性的」じゃなくても繋がりは繋がりだと思い、先の自分の考えを少し恥じる。


物事の始まりにも終わりにも聞こえるテーマ曲を始め、「音」の数々が素晴らしい。「シャンパンを注ぐ時の泡の音」の鋭さよ。