サントメール ある被告


「なぜウィトゲンシュタインを?アフリカの女性が20世紀始めの哲学だなんて、もっと身近なテーマにすればいいのに」には、哲学科を当たり前のように卒業した私としては日本で日本人として生きるって何て呑気なことだろうと思わずにいられなかった。尤もこの場合「間違っている」のはこんなことを言う教授の方だけども。同時にこのあたりで、母語でない言葉で自身や世界を理解、説明しなきゃならない人が世界中にいるが映画にはあまり描かれていないなと気付いて、流暢なフランス語で話すロランス・コリー(ガスラジー・マランダ)の姿がそれまでと全然違って鮮烈に映った(などと考えながら見ていたら、終映後のトークで通訳の方が「(アリス・ディオップ監督のフランス語を)日本語にするのは難しい」と言っていた)。

『私たち』(2021)が面白かったからというだけで見に行ったので始め何の話だか掴めなかったのが、ラマ(カイジ・カガメ)が持参しその上で体を伸ばし包まって眠る青い上掛け(=娘が漂う海)、ロランスの茶色いトップスの数々(=背景との同化)、この映画が母と娘、移民としての人生を扱っていることが分かってくる。トークで監督がこの映画が描いているのは普遍的な…というより小さくない、大きな内容なんだというようなことをしきりに言っていたけれど、ああ、だから私にはこれが「分からない」んだと納得がいった(とりわけ最も「普遍的」と思われる、最後の「科学的」な内容につき。科学が分からないという意味ではなく)。普遍的だからこそ「分からない」ということがはっきり分かるということを、普段は忘れている。

顔がどアップで映されこちらに語りかけてくる弁護人の女性の最終弁論は、日本に来た留学生について日本語ネイティブが語るようなものだと思い(フランスとセネガルの関係とはまた違うけれども、それにもう、日本にはこのような留学生が来なくなると思うけれども)おこがましい気がして居心地の悪さを覚えたけれど、女性問題は女性の問題じゃないだろうというのと同じで、道を奪った側が問題を浮き彫りにして訴えなきゃならないということだろうか(「彼女には何もなかった」の衝撃)。しかし自分で言葉にできなかったものを言葉で聞いた後に泣き崩れる姿を移民二世の監督が撮っているということについて、どう捉えていいのか私にはまだよく分からない。