アダマン号に乗って


冒頭一人の男性がテレフォン『人間爆弾』を歌う様子にフィンランド映画祭で見た『カラオケパラダイス』を思い出した。司会者の女性はセラピストになりたかったが家計の問題で断念したと話していたし、多くの人達が既成の言葉に自らの思いを込めて歌っていたなと。しかしこちらの彼は思いを込めるなんてイメージを軽々と凌駕するのだった。他にも何人かが弾き語りなどをカメラの前で披露するが、全てほぼ丸々収められている。私の好きな映画は大概そう、人の歌を切ることをしない。

「コーヒーは濃いめが好み」の男性がカメラを越えて私を見てくる瞬間は大げさじゃなく何十年に一度の体験。ニコラって名前はすてきね、いやエリックも、の「寂しくてしょうがない」女性を捉えた場所に違う時には入れ替わり立ち替わり色んな人が現れる、当たり前かつただそれだけなのに他の映画では味わえないあの妙、もしかして昨年公開された『窓辺のテーブル 彼女たちの選択』はこれをやりたかったんじゃないかと考えた。

薬がなかったらセーヌに飛び込んでいた、幻聴などの症状のため息子を養子に出さねばならず辛かった、「早く先生にぶちまけたい、先生はすごい」(この言葉の意味するところは実際私には分からないが)、「カウンセラーと話すと(命令してくる)声が消える」、人を憎みたくないのに憎んでしまう、他人の出す音が怖い……。ミーティングや活動の様子だけでなくこういう声が収められているのが素晴らしい。あまりにも違う人々が同じ船にそれこそ邦題通り「乗って」いるのだとよく分かる。

「アダマン号の日々の目覚め」で終わる本編の後に出る文章は「個人が尊重される場がある。この先は?」。告発と望ましいあり方を描くものとは表裏一体なのだと強く思う。アダマン号のやり方かつ映画もならっている方針で外見からは誰が医者で誰が患者か分からないことにつき、少なくとも日本では苦痛を感じる人もいるのではないかと考えた。多くのメディアにおいて個人の性別や年齢、果ては「既婚」か否かまで記されておりそれに慣れているから。余白というか何も書かれていないことを尊重するためにもっと何かできることがあるはずだと考えた。