まどろみのニコール/ステーション・エージェント

特集上映「サム・フリークス Vol.5」にて二作を観賞。今回も素晴らしいイベントだった。


▼「まどろみのニコール」(2014年/ステファヌ・ラフルール監督)で描かれるのは、両親不在の家で夏を過ごすニコールの不眠症の日々。「どこへでも行ける、何だってできる」カードを手に入れながら、アイスランドでのハイキング用にと黒く塗ったブーツで庭の芝を刈る。

途中まで「愛しのタチアナ」を思い出しながら見ていたものだけど(ミシン繋がりもあり・笑)終わってみれば監督が編集を担当したという「さよなら、退屈なレオニー」(感想)とほぼ同じ話であった。ニコールが最後に聞く「君は好きなところに行けばいい」とは少年の口を借りた天の、いや自分自身の声だったと言ってもいい。彼女はよその家のソファで作中初めてぐっすり眠る。

私は寝つきが悪く眠りが浅いが同居人は寝つきがよく眠りが深い。例えば金曜日の夜、彼は十一時に寝て、私が本をめくって映画を見ている午前二時すぎにふと起きてきて、「昨日の…」と話し始める。彼の昨日は私のさっき。眠れぬ者に昨日は無い。「さっき」を「昨日」にしたい。不眠症のニコールの姿にふとそんなことを思った。

寝ている親友、寝ていないニコールの傍で扇風機が回っている。夏の夜に眠れない時、傍らの扇風機の運動を感じながら、こんな、どこへも行かない風が涼しいわけがないだろうと奇妙な気持ちになることがある。そのことを思い出しながら見ていたら、彼女も家を出て走り出すのだった。

ちなみにこの映画も私の集めている「登場人物が自分の肖像画を部屋に飾っている」、じゃなく飾ってある、いや飾られている映画だった。居間のあれはおそらく両親が描いたかつての兄と妹だろう。親がいなかろうと親元は親元ということだ。


▼「ステーション・エージェント」(2003年/トム・マッカーシー監督)は鉄道模型店に出勤したフィン(ピーター・ディンクレイジ)が同じところをぐるぐる回る電車の模型の電源を入れるのに始まる。店主の死により寂れた駅舎を相続し、そこに住まうことになる。

小人症であるフィンは「見えない」と言われたり「見れば忘れない」と言われたり。この二つが同時に起こることについては身に覚えがある(…という人は結構いるのではないか)。昨今は「普通じゃない」人が「普通」にやっている映画が多いから、冒頭のこうした差別描写の数々が鮮烈だった。明らかに差別のある世界も一見ない世界もどちらも映画としてあらねばならないと思う。

(「普通」の)白人男性の弁護士が「あんなところ、何もない」と言ったその地において、白人男性じゃない人々によって作られる共同体。フィンが持っていなかった自動車をジョー(ボビー・カナヴェイル)が、カメラをオリヴィア(パトリシア・クラークソン)が用意し、映画までまかなって観賞会をする。

オリヴィアから連絡が途絶えた時、それまでなら考えられないことだが、フィンは彼女の家まで会いに行く。彼女の家の壁と同じ黄色のシャツを着て、長い待ち時間に備えてサンドイッチを持って(食事は大切!)。「一人」をやめるとそりゃあ大変なことが多いが、躊躇なく飛び込んでいく。

元夫とのやりとりに疲れたオリヴィアがフィンを「私はあなたの恋人でも母親でもない」と追い返すのは、それまで恋人とか母親とか名前で完結する関係しか持ったことがなかったがゆえの混乱からではないか。それが最後の画のような、ただ「good time」のための誰かとの関係を築くまでになる。

ところでこの二本、いずれも女性の下着(ブラジャー)を意識させるものだった。前者は男の横で眠れず朝を迎えたニコールがブラジャーを着ける(私には却って面倒なのでしないけれど、前でホックをとめて回すあのやり方で)ことで、後者はオリヴィアがそれを身に着けていない(従って身長の低いフィンのほぼ目の前に乳首が浮き出ている)ことで。前半のオリヴィアがブラジャーを着けていないのは、人に会う気がないことの表れかなと考えた。