ジュディ 虹の彼方に


作中最初のステージに、背中をぽんと押されて出るジュディ・ガーランドレネー・ゼルウィガー)の様子にはっとする。バンドを使わなきゃねと軽口を叩いての後ろ姿を捉えた画面は完璧だ。その理由が程無く分かる、歌い始めるのは「By Myself」、映画のオープニング、暗闇に連れ込まれ大人の都合による物語を叩きこまれ道に立たされた彼女が未だそれに抗う歌だから。「私は私のことを誰より知っている、私は一人きりでゆく」。

そう考えると、実際のところは知らないけれど、作中のジュディとミッキー・ディーンズ(フィン・ウィットロックが驚くほど魅力的)がうまくいかないのは互いに依存してしまったからのようにも思われる(尤も私はあれは悪いことではない、そういうこともある、仕方のないことなのだと受け取ったけれども)。彼との仲違いの後に元夫宅に電話して子どもの気持ちを確かめる意味合いも何となく分かる。

「By Myself」で「愛はただのダンス」と歌っても、ジュディには信じている愛がある。「調子のいい時には」自分と客との間に生まれるそれだ。ロンドン最後のステージに立つ直前、彼女は周囲には「ふられたの、私の記憶では」と茶化して話すミッキー・ルーニーとのデートが潰えた真の顛末を回想する。その後に歌う「いつもあなたと一緒」とは観客のこと。こんなふうにこの映画はステージがいずれも有機的で、生きている。

会ってすぐさまの「あなたは何歳?」に28と答えるロザリン(ジェシー・バックリー)はジュディの「全盛期」を知らず、おそらく「睡眠と教育」に恵まれて育ち、ショーを管理する側の仕事という、いわばジュディの真逆に位置する人間である。それでも彼女が涙をこぼせばそれを拭き、一人帰る背中を見送る。医師は自分を大切にするよう言う。ジュディはファンに文字通り寄り添う。作中には異なる境遇に生きる人々の心ある触れ合いが多く描かれている。人間ってそういうものじゃないか、という視点を感じる。

加えて人が人にできることには限りがあり、誰しも真には一人で歩いて行くのだということもステージのジュディは訴えている。ジュディはその狭間、人と人との間には愛があるがそれはある域を出ない、出られないとでも言おうか、に生きているから、ロザリンの「分かります」にこそ苛立つ。でもその煩悶は最後の「Over the Rainbow」で溶ける、一人一人が希望を胸に歩むのだとの彼女の歌に客席が応えることで。あれは皆が「私は私の道をゆく」という同志になった瞬間に、私には見えた。