NOPE ノープ


遅刻常習の妹エム(キキ・パーマー)が皆の前で滔々と語る「映画初のスタントマンにして調教師にしてスターは私のひいひいひいおじいさん、黒人は映画の誕生時からそこにいた」という口上に惚れ惚れしていたら、その、映画の観客への説明というより世界へ認識を促さんとする主張は「長い」と言われてしまうのだった。あんなに楽しく聞かせようとしているのに、話し続けなきゃ葬り去られたままなのに。一方で馬とも撮影隊とも目を合わせない兄OJ(ダニエル・カルーヤ)の言葉は「馬の目を見ないで」を始めとして全く聞いてもらえず、馬は人を蹴り彼は仕事を失う。処世のための術、あるいは傷が更なる悲劇を招く、どんづまりの状況である。

(以下少々「ネタバレ」しています)

映画はものを言わせてもらえず見世物にされていた者=チンパンジーのゴーディが周囲をほぼ皆殺しにするのに始まる(と後に分かる)。往年の子役、アジア系のリッキー(スティーヴン・ユァン)はテーブルクロスのおかげで目が合わず手を掛けられなかったのを「信頼されていたから」と思い込み、銃殺により妨げられた通じ合いの素晴らしい瞬間をいまだ求め皆とも共有しようと飛行物体のショーを行っている。この彼の過ちは作中では悪ではなく悲劇として位置づけられており、最後の最後に人形が身代わりとして爽快な復讐を果たしたようにも見えた。

飛行物体と馬上のOJをフィルムに収めひいひいひいおじいさんから自分達へ途切れず繋がる歴史を確実にしようという彼らの、お話の意図が見えてくるも、このミッションが成し遂げられる場面は中途である。この映画には更に、「見る」という行為には優しさと強さが必要だというメッセージも込められている。中盤「(父と兄の)二人が私の馬を調教するのを見てた」と話すエムの姿を窓の外から捉えたカット、続く少年時代のOJが妹に向けて「見てる」のサインを送るカットがあまりに胸にぐっときて不思議に思っていたら、最後にそれが繰り返され、今度はエムも「見てる」を返す。

不思議なカットといえばカメラマンのホルストマイケル・ウィンコット、とても印象的な目をしている)が作中再登場する、エムの電話先の画が緑の中で映像をチェックしている後ろ姿であるのにも奇妙な印象を受けたものだけど、あれは撮影する者もまた我々に見られているということなんだろうか(ちなみに彼は終盤牧場へやって来る時も後ろ姿で登場する)。

好きか嫌いか、良いとするか悪いとするかは人によるだろうけど、人間や「動物」が入り交じりその立場が次々と入れ替わる様があまりに複雑かつ面白く描かれているこの映画には、そこから抜け出す余地がないようにも思われた。映画から一歩も出ず、我がこととして捉えずにも見ることが出来てしまうというか。私はそういう映画にはぐっとこないけど、そこまで作りこみをする作家は嫌いになれない。