モーリタニアン 黒塗りの記録


私達がまず見るのは故郷モーリタニアから引き離されるモハメドゥ・オールド・サラヒ(タハール・ラヒム)と彼をめぐる仕事を引き受けた二人、上司に「無料奉仕に許可は要らない、礼儀で報告しただけ」と言ってのけ、グアンタナモでは被るよう渡されたヒジャブを被らず相手から身を避けるよう言われても避けない、自分の意思のみで行動する弁護士のナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)と、911の際にユナイテッド航空175便の副操縦士だった友人を亡くしたという、感情を動かされるであろう事情を持った軍検察官のスチュアート・カウチ中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)である。

起訴も裁判もなしに長期間拘束されているモハメドゥにつき、「無実か否かは関係ない、新法に基づき拘禁の不当性を訴える、不当なのだから勝ち目はある」と人身保護請求に臨むナンシーと、「有罪が確定すれば自分の手で死刑にしたい」と起訴の準備を進めるスチュアートが各々正当だと思う道をゆくと、半ばで同じ悪に遮られる。それは個人の名を消す組織である。

職員とその名を問うナンシーとの「ケネス、あとは機密だ」とは一見冗談めかしたやりとりだが、この映画は、最後の本人映像にある「アラビア語で名前を刻んだプレート」からの着想か、名前を求める者が、そうでない、つまり名前を消して組織の陰に隠れる者、ひいてはその組織に抗う話となっている。「具体的には誰を訴えるんだ」へのナンシーの「連邦政府ラムズフェルド国防長官、ジョージ・W・ブッシュ」にモハメドゥが「よし、のった」と答えて話は動き出す。

仕事から降りる決意をしたスチュアートの「違わないことが問題なんです」に表れているように、弁護士だって軍人だって同じ職ならば同じ学びを経てきているのに、二人のように自らの名前のもとに個人として活動する、いや活動できる者は少ない。更には名前を奪われる者もいる。モハメドゥを「マルセイユ」がお返しにそう呼んだ「The Mauritanian」というタイトルは、名前のない存在から名前のある存在への出来うる限りの運動を表しているように私には思われた。

映画は「現在」と「『自白』に至るまでの過去」とが同時進行していくが、始めに出る「真実のストーリー」の真実とは後者のことを指している、すなわちモハメドゥの手記の内容と「MFR」(Memorandum for the Record)とが一致していることを言っているのだと思う。モハメドゥがどんな時でも見せる笑顔は彼以外の誰もそれについてどうこう言えないのだとも思う。それでもスチュアートは勿論ナンシーでもなく彼によってなされる映画の終わりのスピーチにおける笑顔には、世界の希望を少し見た。