最後の1本 ペニス博物館の珍コレクション



「カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2015」で見逃したものを観賞。面白かった。
アイスランドペニス博物館」に欠けている「ヒトの標本」をめぐるあれこれを追ったドキュメンタリー。


オープニングはアイスランドの大地。一人の男…博物館の創設者シッギが船から上がったばかりのものを大切に受け取り、持ち帰って処理をする。彼によると、1974年(って私が生まれた年だ、嬉しい・笑)に知人から牛のペニスをもらったのを切っ掛けに様々な生物のペニスの収集を始め、1997年にコレクションの展示を目的に開設したんだそう。
「家中がペニスだらけだったから(博物館が出来て)ほっとした」と言う妻との、仲のよいであろう暮らしぶりがちらと挿入されるのがいい。二人とも顎が盛大にたるんでいるのが、同じものを食べてきた証のように見える。


私は「博物館」というものがよく分からないから、この博物館になぜ「ヒトの標本」が要るのか疑問だし、加えて「標本」って「どこの馬の骨」か分からないところにロマンを感じるから、こういう人がいいとか、我こそはとかいう感覚もぴんとこない。しかしそうはいかないところが人間の人間たる所以なんだろう。ちなみに「標本」に「法的な長さ」が必要な理由も分からないけど、作中の大学教授によればアイスランドにはペニスの長さに関する民話が数多く残っているそうなので、土地柄なのかな。
本作は広義の「教師映画」でもある。長年教師を勤めてきたシッギは、博物館運営の目的を「知識を与えたい」「世間を挑発して価値観を変えたい」と言う。本作は彼のその言を強調するのみでそれに即した内容には触れないけど、その原動力が分かるだけで十分面白い。彼が「ヒト」を加えたいと熱心に考えるのもそのためなんだろう。


「最後の一本」にと申し出てきたのは、アイスランドの著名な冒険家にして「精力絶倫」を誇る90歳のパゥットルと、アメリカのカウボーイらしきトム。トムの語りを聞いているうち、先に書いたようにこの映画には「人間の人間たる所以」が表れているのだとふいに分かった。彼のペニスへの執着が「自分から離して管理する(休館時には自分の元に送り返すよう要請している)」というのが面白く、ペニスに執着すればするほど「男」から解放されていくようで、上手く言えないけど何かとても「普遍的」なものを感じ、応援したくなった(しつこくされるシッギのことを考えるとそうも言っていられないけど・笑)
二人と様々な専門家とのやりとりも見どころで、刺青師、プラスチック技師、外科医…って、彼らを話に絡ませるのは殆どトムだ(笑)執刀するならば精神科医の診断が必要というのはなるほどと思った。


上映後のトークショーで写真家の方が本作を「朴訥」と評していたけどその通り、この映画には、多少の「演出」(主に「候補者」二人の撮り方)はあれど、博物館周辺の情報も全く無ければ(そもそもフーサヴィークというのがどんな土地だかよく分からない)私がドキュメンタリーを見る時の楽しみである「辻褄合わせ」も無い。ただ「時間」が流れたことによる「変化」が窺えるのみ。それが妙に面白い。
終盤、シッギがとあるところに車で向かう際のどこもかしこも真っ白な無人の一本道と、帰りの人心地を感じる道の対比が印象的で、このくだりにはかなり「映画的」なものを感じた。