きっと、星のせいじゃない。



原作小説は未読。とても面白かった、今年一番ってくらいのお気に入り。


ヘイゼル・グレイス・ランカスター(シャイリーン・ウッドリー)は、始めくたびれた白シャツにスウェット姿なのが、オーガスタス(アンセル・エルゴート)に出会ってから明るい色を身に着けるようになる。夕食時に呼び出されて二度目に部屋を訪ねた際、彼女の黄色いシャツを彼は「似合うよ」と褒める。映画館にて、赤いスカートはともかくグレーのタートルネックを着ていた私はもう、帰って脱ぎたくてしょうがなかった(笑)


出会い頭にガスとぶつかったヘイゼルは、お手洗いの鏡の前で髪と鼻に付けたチューブの位置を直す。彼が意見を述べている間の彼女は腕組みに挑戦的で熱っぽい瞳、手をすっと挙げて「反論」する。あの挙手は「あなたに関わりたい」ってこと。すると彼は「すぐ来て、ドアは開いてる」。物事を共有し意見を言い合うことがずっと続き、そこに笑顔と愛の言葉が生まれる。それが素晴らしい。


この映画で面白いのは、二人の間に常に意見の相違があるということ。アムステルダムのレストランで、葬式用の一張羅についての思いの食い違いの後、彼らは互いの考えを(いつもに増して、更に)開陳し合う。ガスが「死後の世界はある、そうでなければ生きてる意味がない」と言うと、ヘイゼルは「それが人生ってもの」と返す。ガスは笑って、初めての「I love you」を口にする。


アンネ・フランクの家での一幕は圧巻だった。この物語において、ヘイゼルはアンネと明らかに「重ね」られている。しかし、誰と誰の間にも重なる部分や共感、助け合いがあり得るけれど、それでも自分の人生は自分だけのものだということが、あそこで分かる。初めてのキスをする二人に泣いてしまった。


ガスが、ヘイゼルに勧められた「大いなる痛み」の感想がまとまらないから(後で振り返ればこの事も面白い)と沈黙している間、彼女はスマホを手放さない。夕食時に久々に連絡があると、察した父親(サム・トランメル)が「席を立ちたい?」。この時、夫婦は夫婦の会話を楽しんでいる。この場面に限らず、夫婦が親子とはまた違う関係を持つ「パートナー」であることが隋所に窺えるのがいい。


憧れの作家の家を前にしたヘイゼルが「嬉しくて息が出来ない」と言えばガスは「いつもだろ」、これは笑って流せても、翌朝の母親(ローラ・ダーン)の「(旅行なら)また来ればいい」は不愉快。ガスの親友アイザック(ナット・ウルフ)も、ガスの「昼でも夜でもこいつには関係ない」には「差別だ」と文句を付ける。相手が誰であろうと、むかつくなら表明することが大事。


「大いなる痛み」を著したピーター・ヴァン・ホーテン(ウィレム・デフォー)は、主人公が亡くなった後に人々はどうなったのか知りたがるヘイゼルに対し、ゼノンのパラドックスや「無限の大小」などを引く。終盤、彼は娘を病気で亡くしていると分かる。「アンネの日記」などとは違い「当人」で無い彼が「その後」を「書かない(=生み出さない)」のは、「その後」を生きる気持ちが無いからではないか?そうだとすると、最後にヘイゼルの前に登場する彼が亡霊のように見えたのも納得できる。


映画はヘイゼルの、こちらへの「This is the true story.」に始まりガスへの「okay」に終わる。冒頭のヘイゼルは、支援団体のリーダーや自分の「これまで」を、明るいBGMに乗せて語る。それが「実は違う」と分かっても「okay」なのだ。「与えられたよりそりゃあたくさん欲しいけど、彼がくれた『小さな無限』、限られた中での『永遠』に感謝している」…