トム・アット・ザ・ファーム



大好きな「風のささやき」で始まるのが嬉しかった。私にとってこれは、ダスティ・スプリングフィールドの歌う、「プルートで朝食を」の曲だけど、勿論、本作のオープニングではフランス語の、アカペラの、丸々ワンコーラスでなければならない。
歌が止むと、グザヴィエ・ドラン演じるトムは青いペンで弔辞を綴る。「涙が出ない/悲しみという感情がなくなった/いま出来るのは君の代わりを見つけることだけ」…その彼が作中初めて涙を流す、いや泣きじゃくるのは、牛の分娩を手伝った後、傷つけられた、血にまみれた手に触れられた時。


葬式の後、トムはフランシスと車を分かち帰路に着くが、結局Uターンする。滑るような空撮、ドラマチックな劇伴、トムが玄関のステップを上るスローモーション、彼の喪服に呑まれる画面。私はドラン監督作って「わたしはロランス」しか見たことないけど(ロランス後に上映されたそれより前の作品は、出掛けるのに億劫な所でしか掛からなかったから…)、このあたりはとても分かりやすい「ドラン」風だ。この「かっこいいことをするのに気後れしない」感じには、よそじゃ味わえない快さがある。
終盤、「異常」に気付き一緒に逃げるよう促すサラの後ろをトムが牛の話をしながら付いていき、カメラが切り返してその顔をアップで捉えた時には驚いた。自分の顔をこんなふうに使うなんて。見事に「薬をやっている人」の顔で、すごくみっともない。ドランにとって、みっともないとは、考える力を失っているということなのかな、などと考えた。


トムは始め眼鏡を掛けているが、フランシスに押し込まれた翌朝、ベッド脇の床に落ちているのを拾って以降、一度も使わない(壊れていたのかな?そこまで目が行かなかった)。これはものが「見えなく」なるということなんだろうか?ドランの映画って常に「意識的」で、対象をはっきり映すから、「正しい」解釈があるように思ってしまう。作為丸出しの感じに疲れもする。
それでも私が最も「正しい」解釈を知りたく思うのは、エンディングクレジットの際、都会に戻ってきたトムが若者達に目をやるところ。田舎の人々もお葬式やバーにおいて映されてたから、対比なんだろうか。息をつく顔、ハンドルを握る手、信号が青になるラストカットに、まさかまたUターンするのではと思う。「Going to a Town」での念押しを思い返せば、そんなことはないだろうか。作中数回ポップスが流れるうち、「ほんとうのこと」「で」聞くコリー・ハートの「Sunglasses at Night」のみ、トムの心情と関係ないというのが面白い(すなわちあの店は「客観的な世界」だということ)


実は見ながら一番思っていたのは、同じように「共依存」を描いていても、「男女」間の物語なら嫌悪感ばかりが先に立つのに、男同士だと時に官能的に感じてしまう、私は弱い人間だってこと。おちそうになると食い止めながら見てた。そうして何がどうなるもんでもないけど。
自分を虐げるものから自立することができないということが、広義には、私にとって、生きていく上での最大のテーマかもしれないとも考えた。そこには、私一人が抗ってどうなるという諦念、どのみち虐げらるんだから味わった方がまだまし、などの思いがある。でも出来る限り、出来ることはしなければ…