ローマの教室で 我らの佳き日々



ローマの公立高校に勤める3人の教師の半年間を描いた物語。元になっているのは国語教師兼作家マルコ・ロドリの「赤と青 ローマの教室でぼくらは」(日本では先日発売されたばかりのよう)。


冒頭、早々に出勤した校長ジュリアーナ(マルゲリータ・ブイ)は、トイレットペーパーを補充したり出しっ放しの水道を停めたりして回る。校長(あるいはそれ以外の教員)がそうした雑用もこなさなければならないというのは、彼女により廃止されたカウンセリング制度、壊れたままのプロジェクター、「三日前までに申請が必要、できれば自費での使用が勧められる」(!)コピー機、「二ヶ月掛かって揃えた」教室の椅子などと合わせて、(現在のイタリアでは?)教育にお金が掛けられていないことを示している。
加えて冒頭のこの描写は、教員の仕事の内容を表してもいる。一旦仕上げれば終わりではなく、次から次へと「一から」向かい合わなければならない相手がやってくる。


映画は高齢の美術史教師フィオリート(ロベルト・ヘルリッカ)の語りに始まる。新たにやってきた補助教員ジョヴァンニ(リッカルド・スカマルチョ)の姿に、「私もかつてはこうだった」。後にジョヴァンニに対し「熱意のある補助教員は嫌いだ、学校を引っ掻き回して去ってゆく」と言ってのけるのも、例え今は厭世的であっても、「学校」にまだ関心と希望を抱いているからだと分かる。
フィオリートは、コメディタッチのこの映画において、その要素の多くを担っている。二者面談で「あなたの子は存在の第一段階にいる、婉曲法を使えば稀に見る馬鹿です」。その後、面談中に親にキレたジョヴァンニに対して「『反社会的』だなんて言いすぎだぞ」(笑)それでもフィオリートは「後輩」を信頼し、生徒の評価を「任せる」などと言う。


ジョヴァンニの出勤初日、生徒の一人が「また国語かよ」。見ているこちらとしても、映画に出てくる教員といえばまず国語だから、確かにまた国語かよと思う(笑)
彼は座席表を作り、家の食卓で生徒達の顔と名前を懸命に覚える。彼の想像の中で、生徒達が名前を間違えると哀しそうな顔、正すと嬉しそうな顔をするのが可笑しい。中盤には「理想の教室」の夢を見る。皆白っぽい服を着て(これも可笑しい)、「問題児」が次々と「理想的」な言動をする(ここで分かるのは、申し訳ないけれども、多くの生徒がいるのに、教員はまず「問題児」に目が、心が奪われているということだ)。それほど努力しているのに、生徒から借りたペン一本を無くしてしまう。なぜ、とも思うし、そういうものだ、とも思う。彼は精一杯の対処をするが、相手にしてみれば「『私のペン』を無くした先生」でしかない。


フィオリートはジョヴァンニを、「詩も暗誦できないのに生徒を悪く言うのか?」と挑発する。ジョヴァンニは「ちゃんと」暗誦してみせるが、フィオリートいわく「意味を込めちゃいけない、学生のうちは意味なんて分からない、ただリズムの良さに任せるんだ」と続きを彼から奪う。その素晴らしい口調、イタリア語に無知なのが悔しい。「意味を込めない暗誦」をどのように「演じ」ているのか分からないから。
後の授業で、朗読を振られた生徒のアンジェラが「わけわかんない」と反抗するが、ジョヴァンニには「意味が分からなくても、とにかく読め」とは言えない。学校では必要な、ある種の「強制」を行う力が、彼にはまだない。一方でフィオリートのような我の強い年寄りに子どもが従うというのは、実際よくあることだ。全てが自分から遠すぎて、想像が付かなさ過ぎて怖いのかもしれない。しかしフィオリートの最後の授業は、力で圧するものではなく、自らを捧げてくるものだった。なぜか涙がこぼれそうになった。またここでのテーマ「ロマン主義と古典主義」の対立性は、作品全体に通じるところがあると思った。


映画などを見る限り、イタリアも女嫌いの国だと感じることがあるけど(そうでない国があるのかという疑問はさておき)、本作では16歳の少女が「時間は女に辛く、体制が求めるものはただ一つ。私は16の今より美しいことはない」と語る。終盤、進級出来ないと分かったアンジェラがするアルバイト(「露出の多い」衣装を着てローラースケートを履きショッピングセンター内を回る仕事)にもそれは表れている。これらは「現実に沿った」表現であると言える。しかしそれ以外の部分でも、「商業的」では無いこの映画が、男よりも女に「美」を負わせていること自体が少々辛くはあった。
(ただし付け加えておくと、校長が「比較的」若い女性であるのは、イタリアの事情は分からないけど、ああいう理念の持主だったからこそ、若くして管理職に就いているのだ、さもありなんと思う)