プロミスト・ランド




「君が来た理由は分かってるんだ、僕らが貧乏だからだろ?
マンハッタンに井戸があるか?ピッツバーグには?」


オープニングは駅構内?の高級レストラン。上司の一人は「飛行機」のせいで遅れるが、スティーヴ(マット・ディモン)の行く先に飛行場は無く車移動。真っ暗なハイウェイをゆくバス。明るくなり、町に降り立つ。
アメリカ国旗を背にお決まりの言葉を口にしていた人間が、最後には人々を前に、後ろに、自分の言葉で話す。それまでの過程を描いた物語。到着してすぐの買い物に表れていたように、他は目的のためにいかようにでも取り替えようと、彼は足元にずっと「尊厳」を持っていた。
エンディングの空撮が田舎町の人口密集地帯であるのは(「環境活動家」によれば「土地の八割を所有するのは住民の四割」)、「人々」の、一丸になるわけではない、それぞれの「意思」の所在を表しているものと受け取った。スティーヴという個人を描きながら、彼だけの話じゃないということ。


(以下「ネタバレ」あり)


雨で祭りが流れた日、車が故障したスティーヴとスー(フランシス・マクドーマンド)は地元の科学教師フランク(ハル・ホルブルック)の家に招待される。故郷について答えている最中に部屋を出たスティーヴがポーチで「小型の馬」を望んでいると、フランクがやってきて声を掛ける。「君はいい人間だ、最近に無いよさを持っている、就いている仕事だけが残念だ」「私は幸運だ、尊厳を持ったまま死んでいける年齢だから」。この言葉は、「複雑な問題」に囲まれた最近の人間は尊厳を保つことが難しく、スティーヴもその「よさ」を一部歪められてしまっている、という意味に取れる。
ティーヴは、数多の田舎町を唯一の道に導くことに生きがいを感じていた。彼がその晩、不正がばれて町を去る環境活動家ダスティン(ジョン・クラシンスキー)をつかまえて執拗に食い下がったのはなぜだろう?放っておけばいいのに。ダスティンの「君が何かしたか?」という言葉に、スティーヴの彼への第一声が「What are you doing?」だったことを思い出す。自分が「何」もしていなかったと知ったスティーヴの心は揺らぎ、一晩、問題の写真を見て考える。それが「偽造」であれ、ルイジアナで牛が死んだのは事実だ。そして最後のスピーチの直前、彼に余分の金を返すレモネード売りの少女。彼の「心変わり」の原因と後押しを探るなら、こんなところだろうか。


ティーヴが惹かれる女性アリス(ローズマリー・デウィット)が、「父が亡くなり家を手放せず故郷に戻って」きて小学校の教員をやっている、という設定には、「WOOD JOB!」で(原作には無いキャラクターとして付け加えられた)山間の小学校に勤める長澤まさみを思い出した。田舎では女性の仕事も限られる。
ティーヴがアリスの家で菜園を見ての「子ども達に農業を教えてるの?」「いいえ、世話の仕方を教えてるのよ」というやりとりが面白い。教員には教員の「見方」というものがある。「take care」は作品全体に横たわる言葉だ。世話をするとは大切にするということ。アリスは作中の限りではそう「いい」先生には見えないけど、祖父がスティーヴに教えたのと同じことを子ども達に教えているのだと分かる。
もう一人の「教員」、ベテラン科学者であり、グローバル社に言わせれば「teaching for fun」であるフランクの場合、教師になった理由は「町のこれからが心配」だから。彼も「take care」することについて教えているのだ。それにしても、「膨大な知識とデータ」を持っている彼が、ダスティンに渡された写真の「嘘」、ひいては社の手口に気付かないのはおかしい。本作の「話」はよく出来てると思うけど、この部分だけが疑問。


実はガス・ヴァン・サントの映画ではそれほど無いことなんだけど、大した場面じゃないのにやけに心惹かれる画…いや人の姿が幾つもあった。ダスティンの車が去って行くのを「あいつだよあいつ!」と体で示すスティーヴ。「マイク・ナイト」の喧騒の中、一人こちら(スー)を静かに見ているロブ(タイタス・ウェリヴァー)。
そして、スーが渡した金をダスティンが受け取った時の、スティーヴの「やった、やった☆」という顔!マット・ディモンの、純粋と馬鹿が半々のような表情が素晴らしかった。鬢に白いものをたくわえながらあんな顔が出来る人ってなかなかいない。これからも三年に一度は見たい。