とらわれて夏



原題(原作小説のタイトル)の「Labor Day」とは、アメリカにおいては9月始めの、翌日から新学期が始まる休日のこと。
オープニングはその通り、まぶしいけれど、もう何かが終わりそうな陽射しの中、ある街をゆく映像。物語が進むと「おせっかい」にも思われてくる辺りの人々が、この時には誰もいない。やがて「目」はふんわりと、一台の車が停まっている家の前に到着する。物語の終わり、あれはもしかしたら、終盤に男が見る「夢」かもしれない、などと思う。
1987年のレイバーデイを控えたある日、シングルマザーのアデル(ケイト・ウィンスレット)と13歳の息子ヘンリーは、脱獄犯のフランク(ジョシュ・ブローリン)をかくまうことになる。危害を加えず家の仕事に精を出す彼に二人は心惹かれ、程無く彼らは「家族」のようになる。


レコードに針を落とし、コーヒーを注ぐ手。よく見れば、自分の服を選んだりハムスターに餌をやったりと慣れた様子で朝の支度をするその手は丸っこい。まだ子どもなのだ。
前半は、嫌というほど男の「手」が強調される。スーパーマーケットでフランクが登場するのも、大きな手から。彼がヘンリーに初めて触れるのは、「無理強いするしかないな」とその首を掴む時。まさにひとつかみ、という感じ。
「家」に着いてからも彼の手は色々なことをする。アデルの手を、足を縛りもする。もっとも彼女が自分の胸を抑える腕に手を添えた格好など、ラブシーンというか「やってみたい」格好にしか見えない。ピーチパイを作る際には、バターを手でちぎり、「麺棒は要らない」。最後の生地をかぶせる「運命の時」を遂げたアデルの手にフランクの手がかぶさる。更にヘンリーが加わり、三つの「裸の手」が一緒になる。
アデルの「A」を刻まれたパイはぐつぐつと焼ける。これは「普通」なら挿入されない場面のように思われた。この描写から、6日間で掛け替えのないものが生まれることは十分ありえる、という主張が伝わってくる。


自分こそ、あるいは自分達こそ「迷子」なのに、息子がちょっと離れるだけで「迷わないで(Just don't wonder!)」と言う母、少年を見る「女」の目、目、目、近所の人の目を逃れて「子ども」を演じる彼、彼の「母」をすぐに見つける男。この「出会い」の一幕がとても面白く、引き込まれた。
この時、ヘンリーはコミックの棚の傍に居る。彼は性的なものと向き合う際、必ず「子どもっぽいもの」と共にある。フランクがアデルにチリコンカンを食べさせる様子(ここでも彼の手が大写しになる)を見る時にはコミックを読んでおり、その後、母がかつて「性」について語った時のことを思い出す。フランクがアデルの腰に手を沿え、アデルがフランクの肩に頭を預ける様子を見るのは、ゲーム機の画面の中。13歳の子は「そういうもの」だとも言えるけど、「最後」の瞬間に自分の部屋に逃げ込むことからしても、「子ども」を演じるのはヘンリーにとって逃げ場でもあったのかもしれないと思う。過ぎ去ろうとしている夏のように、あの季節は彼にも「瀬戸際」だったのかもしれない。


面白いのは、フランクが一度も、正確にはアデルとヘンリーに対しては一度も「嘘」を付かないということ。家にやってきて椅子に腰掛けると開口一番「俺は嘘は付かない」と言うのが、まさにその通りなのだ。初めて会ったヘンリーに血が付いていることを指摘された際の「窓から落ちた」という返答も、その時点では嘘っぽく聞こえながら、後に「本当」だと分かる。彼の言によれば、脱獄する時にも「逃げるぞ」と宣言してから実行している。「嘘を付かない」というやり方を「選択」しているようだ。それは一つの生きる技術として、ヘンリーに伝授される。
近所の家の息子バリーを預かった際にも、真正面から相対して名乗る。バリーが帰宅する間際、脱獄犯のフランクについて報道しているテレビのニュースをなぜ消さないのか不思議に思ったものだけど、きっとアデルとヘンリーはフランクに「あてられて」いたのだろう。二人はフランクに言われて初めて、バリーが厚着をしていることや、空を見ると楽しいということに気付いたのだから。


フランクとヘンリーが「親子」にはならなかった、互いに「親子」だと思うようにはならなかった、というのもいい。アデルとフランクの「前の夫なら息子を連れてはいかない」「俺は父親じゃないからな」というやりとり、ヘンリーが書き残す「Dad」宛ての手紙などからしてそう思う。
「親子」であることと「家族」であることとは勿論違う問題だ。アデルがとある告白の後「もうあなたの子どもは産めない(I can't give your family)」と涙をこぼすと、フランクは「俺達が家族だ」と返す。親子でなくても二人の間に子がなくても「自分たち」がファミリーだという、あの感覚にはぐっときた。