ビザンチウム




「私は彼女に敗北した
 生涯、愛し続けたのだ」


ニール・ジョーダンのヴァンパイアもの再び。2007年発表の舞台作品を元にしているそう。
寒々とした海辺の町…ホテル、ネオン、遊園地。ニール・ジョーダン盛り合わせとしても楽しいけど、いかにも彼らしい「吸血鬼」というはみ出し者の物語と思いきや、「女に『創造』(吸血鬼を「作り出す」こと?)は許されない」「女は『同盟』に入れない」という設定により、「女」というはみ出し者の物語になっているのが面白かった。


冒頭、クララ(ジェマ・アータートン)とエレノア(シアーシャ・ローナン)の暮らす集合住宅の壁がまるで中世の建物の内部のように見える。時間も場所もあっちへ行ったりこっちへ行ったり、エレノアが「過去の自分」と遭遇したり、とっちらかっているようだけど、悠久の時を生きる「吸血鬼」って誰が先だったか、誰が影響を与えたか、混沌として分からなくなっちゃいそうなものだし、文章を書き散らかした紙が飛んでいくイメージにも合ってるし、いいなと思った。冒頭のセリフはエレノアが合意の上で捕食した老人のものだけど、後に彼女は自分の文章に似たような表現を使う。これだって、変な言い方だけど、過去にエレノアが彼に向かって口にした言葉かもしれない、なんて想像する。


海辺の町にやってきた二人は、それぞれ早速「男」と関わりを持つ。亡き母の貯めていた金を出しながら泣き出す男に掛ける言葉とまなざしに200年のキャリアが覗えるクララと、ほぼ同じだけ生きていながら「私は全てを覚えてる、忘れられない」と自分の気持ちをストレートに告げるエレノア。二人の違い。
「娼婦」と「聖女」なんて、もっと俗っぽい描写にまみれてしまいそうなものだけど、本作にはそういう(嫌な)「感じ」が無い。原作は知らないけど、ニール・ジョーダンが「清い」からか、あるいは「吸血鬼」というものがそもそも「邪」な存在であり、セックスなんて関係ないからか。エレノアは思いを寄せるフランク(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)の血に「反応」してしまい、伸びてしまった爪がおさまらず、他の「死んでも構わない」者を探して襲う。


振り返ると本作は、自分で考えることを教えてもらえなかった者は苦労する、という話にも思われる。クララは当初のままずっと売春で生活費を得、エレノアはそれに対し「もっとまともな仕事をして」と反発する。それはどちらも「そういう考え」しか出来ないように刷り込まれているから、とも考えられる。
エレノアは面談相手の教員に対し「だって、そういうことをするのはよくないと教えられたから」と言う。「たかが」そんな理由なのだ。もう200年も経ってるのに。「人間」って「時代」によって「違う」ものだけど、かりに不老不死で長い年月を生きたら、その価値観はどうなるんだろう?これは全ての吸血鬼ものの根底にある「問題」のはずだけど、私は本作で初めて思い及んだ。


「物語」のラスト、クララの「創生」に関わってしまったダーヴェル(サム・ライリー)は「『同盟』は変わらない、君達は追われ続けるだろう」と言いながらも彼女の隣に居ることを選び、エレノアはフランクを吸血鬼に「する」。(「女」が阻害される)世界は多分変わらないけど、逃げなきゃならないとしても生きていくという大人達と、世界のことなんて知らず恐れず新しいことをしちゃう子ども達、というラストに胸がいっぱいになった(吸血鬼に大人とか子どもとかってのも変だけど・笑)
本作の特に好きなところはダーヴェルの描写。彼はクララに出会った時も彼女が吸血鬼になった後も、「自分より偉い男」に楯突くことが出来ず彼女を救えない。しかしそれは「大ごと」のようにも、彼がすごく後悔しているようにも描かれない。その感じがすごくあったかいというか、私としては心に沿う。「はみ出し者」の側だけじゃなく、こちらにも自分がいるようで。


ジェマ・アータートンシアーシャ・ローナンは200年も「人間」として生きているのに、その佇まいはどこか「野生動物」のよう。ガウン姿のジェマにセーター姿のシアーシャが寄り添う画の、二匹のチーターか何かのような美しさ。
せっせとしたためた「物語」を信じてもらえず、無念に打ちのめされ、それでも何とかしようとする場面が、シアーシャに最も似合っているように思われた。女教師にはすごむが、フランクには哀しい顔を向けるしかない。二人の恋模様の場面はどれもよかったけど、バス停でのやりとりでは、雨ににじむ町の明かりとシアーシャの涙の膜が貼った瞳に泣かされた。