パッション



ブライアン・デ・パルマの新作。予告編にはそそられず、「女の敵は女」というキャッチコピーにもげんなりしつつ、初日に出掛けてみたら、最高の劇場体験が出来た。超が100個付くほどのデパルマ映画。


私は第一に、デパルマといえば何と言っても「殺しのドレス」「ボディ・ダブル」。第二に、とはいえそれらはリアルタイムじゃなく、映画好きになった10代の頃にビデオ借りて何度も見てた。これらがまさに、本作にヤられちゃう条件なんだな。今頃こんな、私にとってデパルマのコアむき出しの映画が劇場で見られるなんて!という。大きなスクリーンで見ているのが変に感じられる瞬間さえあった(笑)


オープニングはアップル社の林檎マーク、カメラが引くとブロンドに淡い衣装の女・クリスティン(レイチェル・マクアダムス)と黒髪に黒い衣装の女・イザベル(ノオミ・ラパス)が寄り添ってディスプレイを見ている。何だか「妙」な感じがする。前半は繰り返されるが中盤からは一切無い、二人の女がぴったり並んだ画だからというのもあるけど、彼女達が「何かを見ている」からかもしれない。どんな映画にも「覗き」要素が横たわってるけど、何かを見ている(=「見る」側にのみ居るつもりの)者を真っ向から撮る時、その要素の意地悪さは最高潮に達するように思う。真っ向も真っ向、二人がランウェイ上の靴を見ているのをまさに「靴」の位置から捉えた画は、作中最も「異様」に感じられた。第三の女、ダニ(カロリーネ・ヘルフルト)の顔を「お茶」の位置からどアップで煽った図は作中最も「魅力的」に感じられたし、分割画面の片方の「牧神の午後」は、これの倒錯したものに思われる。「見られるために演じられているものを見る」という当たり前の行為が異常に感じられるのだから。


話は本当につまらない。ストーリー以前に「男」の下で「女」たちが争うという構図、「同性愛」の都合いい使い方、デパルマ映画じゃなかったらくそだよね、ほんと。それをよくもまあ、こんな夢の映画にしちゃうものだと感動しきり。
冒頭から全てが大味で、印象に残るセリフなど一つも無い。時折その「妙」な感じに心が奪われる。音楽が「最高潮」に達しイザベルが大ショックを受ける画(これも彼女が「何かを見ている」顔のアップ)では、彼女の心にこちらの心が沿っていないので「当惑」してしまい、笑うほかない。しかしこここまでは「セットアップ」なのだ。更に彼女が高らかに笑い出すまでが「セットアップ」第二段階。こうした地ならし的な語りは昔の作品には無かったように思われる。少々の歩みを経てカメラは斜めになり、映画は全力疾走し始める。心が沿わないことなんてどうでもよくなる。
そこからはめくるめく、デパルマによるデパルマのパロディのような…といっても、そのやり方は昔に比べて随分洗練されているけど、スマートフォンに代表される「現代の技術」が下品な程に取り入れられており、結果として映画全体のケレン味、過剰さは昔と同じレベルになっている(笑)


ぎゃー!と心の中で叫んじゃったのは、「殺しのドレス」で一番好きな、ケイン様の鏡の画と似た構図。なるほどそれなら「彼女」が…と思いきや、そうじゃないのが心憎い。後にそれが「鏡」じゃないことが分かるのも、一応「現代」へのバージョンアップのアピールで憎い(笑)