クロニクル



公開初日、シネマカリテにて観賞。ほぼ満席だった。
予告編からは想像し得ない部分が面白かった。「哲学」の大切さを訴える映画でもあった(笑)


ファーストシーンが印象的で心惹かれる。自室のドアの内側の鏡の中に、ビデオカメラを向ける主人公アンドリュー(デイン・デハーン)。鏡の中のカメラが父の暴力で揺れる。
後のとある場面、振り返ると作中一番美しかった(と、私には見えた)アンドリューの笑顔も、部屋に入ってきた父の暴力で一瞬にして消え失せる。父が彼を殴る理由は「俺が開けろと言ったら開けろ」。後にスティーブが「バリアを張ってるみたい」と言うように、少なくとも当初のアンドリューは、「開ける」ことを拒むように、内にこもるように、「世界」にカメラを向ける。それは彼に出来る唯一のささやかな抵抗であり、ある種の「暴力」でもある。終盤マットが「カメラをとめろ、お前と話がしたいんだ」と苛立つことからも分かるように、「見る」側に埋没するのは目の前の相手にとって極めて失礼なことだ(このことを考えると、冒頭マットが車内で口にするショーペンハウエルの話は少し面白い)。


アンドリューが「カメラ」でもって「世界」に抵抗すると、「世界」の側が、思い掛けない反撃を受けたとばかりに新たな攻撃に出る。「いつものランチの場所」(家庭環境により勿論、食べるのはスナック)ではチアリーダーの女子に「キモイからやめて」と言われ(まあこれは「攻撃」とは言えない)、校舎内に戻ると他の男子にカメラを蹴飛ばされる。
マットのガールフレンドも「ブログに載せる」ためにしじゅうカメラを回しているが、周囲は気にしない。それは「当たり前」だ、なぜなら自分が「対象」になる際に問題となるのは、相手との関係性なんだから。マットに「撮られるのは平気?」と聞かれた彼女が「(多分いつでも)気にならない」と答えるのも印象的。クライマックスでアンドリューが自分のことを撮っている人々の「カメラ」を怒って引きずり出す場面は、これとあまりに対照的だ。
後半はアンドリューではなく、店や病院やパトカーといった「アンドリュー以外」のカメラによって綴られ、「世界」の側から見た彼…がどんな存在になってしまったかが曝け出される。マットのガールフレンドはあんな時にカメラを手放さずにいられるのか?と思っちゃうけど、複数カメラ制のおかげで、ジャッキー映画のように同じシーンを別アングルで繰り返すアレが臆面もなく出来る(笑)


意図せずして「運命共同体」になってしまった三人の少年。アンドリューの父が「あれが友達か?お前は恥をさらしてるだけだ」と言うのは、友達も金も無くテレビの前に座っているしかない者の僻みなのかもしれないけど、実際どうなのか。
アンドリューに「ぼくのことを好き?」と聞かれたマットは「以前はそうじゃなかったけど」などと余計なことを口にし、アンドリューは疑念を植えつけられたのか?後に「俺たち友達だろ」と言うスティーブを「こうなる前は違ったじゃないか」と突き放す。つまるところ「友達」という問題で重要なのは、真に「友達」か否かということではなく、自分が今の状態に満足しているか否かなのだ。


三人が雲の上でアメフトごっこに興じる様子はいかにも豪快だが、どこか不安な匂いがある。その理由は程無く分かる、アンドリューに「超能力」があろうと、お母さんの病気もお父さんの暴力も「変わ」らないし、セックスは出来ないし、友達(だと誰かに対して思うこと)も出来ない。「力」が無くても問題無かった二人は今でも問題が無く、アンドリューの問題はそのまま。ただただ「力」の凄さだけが浮き上がる。
「今日ほど楽しかったことはない」とマットが告白する時、アンドリューのカメラは「上空」から三人を均等に撮っており、その眺めはいかにも平穏だけど、横並びじゃダメなのだ。「力」を持つ者には「同士」ではなく「(育ての)父」が必要なのであり、スーパーマンスパイダーマンもそのおかげでスーパーヒーローになれたのだ。「アメリカ」ってそういうふうに考える国なんだなと思った。