最終目的地




「おかしなものだ、
 彼について調べるために来たのに、君たちに関わってばかり」


「きっと後悔するよ、
 せっかく南米まで来たのに、私たちに関わらなかったことを」


今年のベスト1級によかった、とても好み。全ての場面が、セリフが、壁に布の、適切な箇所を留めるピンとなり、美しい陰影を作っていくような、そんな映画。そこに描き出されるのは、セリフにも出てくるように「関わり合い」だ。
南米ウルグアイに暮らす、亡くなった作家の妻、愛人とその娘、兄とそのパートナー。そこへアメリカから、作家の伝記を書きたいという青年がやってくる。「妻」キャロラインにローラ・リニー、「愛人」アーデンにシャルロット・ゲンズブール、「兄」アダムにアンソニー・ホプキンス


伝記作家のオマーがウルグアイに到着しスクールバスで屋敷に向かう途中、車窓から、反対方向に猛スピードで走る牛の群れが見える。後に彼の恋人ディアドラがやってきた際には、車をその群れに遮られ進めなくなる。なかなか印象的な画。
滞在して程無く「蜂について何か知ってる?」と問われたオマーは、辞書に載っているようなことしか言えず自嘲気味になる。思い返せば、冒頭、アメリカで彼とディアドラが過ごしていた借家での時間が、変な言い方だけど辞書みたいなもので、「本物」はここにある、というような感じがした。勿論それは「彼にとって」であり、ここに暮らすべきでない者もいる。本作において「家」という概念は大きな要素であり、ラストシーンの二人のやりとりで、「私も同じところに住んでる」という言葉に対し、もう一方が見せる表情が面白い。ここに住む、とはどういう意味なのか。


ローラ・リニーの素晴らしさに、始めから終わりまで胸がいっぱいだった。招かざる客を見下ろす、窓ガラスに映った険しい顔。翌朝、鏡に向かってアクセサリーを着け、自分を演出する。別の朝食時にオマーが不意打ちで部屋を訪ねると、ちょっとした「素顔」を見せる。テラスの椅子に横になった時に重なった頬の肉にぐっときた。またこの場面でのオマーとキャロライン、後のキャロラインとアダム、それぞれが話す際の、椅子と椅子との、すなわち人と人との「距離感」が何とも絶妙。ディアドラを迎えたキャロラインは、画家としてのセンスも手伝ってか?「椅子をもう少し左に寄せて」と注文を付ける。
キャロラインがアダムとの会話の中で、アーデンについてどう思っていたか触れる場面では、それまでの積み重ねと彼女の演技により、陳腐な言葉に真実味を感じる。そして、終盤に挿入される女二人の「現実には無かった場面」が、「幻想的」で効いている。そう、しょせんは幻想なのだ。


ローラとシャルロットの衣装がどれもいい。ローラはどれも大事に着てるんだろう、シャルロットの方はノースリーブにウエストを絞ったサマードレス、沼地に行く長靴との組み合わせも素敵。更にはラストで二人とも、季節や土地が変わった際の別の着こなしを見せてくれる。ローラ・リニーの輝いてること!
一方、オマーの「完璧な」恋人ディアドラは、同じシャツを色違いで持っているような女性。彼女がやってくると、ウルグアイの屋敷も急に味気なく感じられる。しかし彼女が真摯な心の持主であることは、その前の病院での会話でちゃんと分かる。実際、屋敷を去る際の彼女の顔はとても美しく見えた。
現地の「俗っぽい」お金持ちマダムに言わせれば、「妻」と「愛人」は、作家にとって「手に負えないのと、物足りないの」。同様に当初のディアドラにとって、屋敷の面々は「殺人蜂を飼い、贋作を描き、脅迫をする」人達。外側から見ればそれも「真実」だろう。彼女たちをそう「悪人」には描いていないのがいいなと思った。


アダムのパートナーのピート役に真田広之。スクリーンで見る彼に、こんなに心躍ったのは初めて。かっこいいとかそういうんじゃなく、映画も彼も素晴らしくて。とはいえ全裸の場面にはときめいちゃったけど(笑・しかもあの見せ方!)
冒頭、ホプキンスのスカーフを真田が結んでやる、その手早い仕草、派手かな?との問いかけに「答えない」あたりで、映画にぐっと引き込まれた。ちょっとした描写の裏に、ものすごく多くのことが、ちゃんと「在る」。真田はホプキンスのスカーフを結ぶ場面で登場し、最後に姿を見せる場面では、とある人物の雨に濡れた靴を拭く。こうした仕草や、梯子に昇ったり馬を駆ったりの動きなど、彼の運動神経の良さが活かされてるように思うし、加えていかにも作中の人物らしかった。



「文学に対する人の義務なんて、そんなもの、ありませんよ」