オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ




デトロイトはまた栄えるわ、ここは水もきれいだし…」


これは大好き!予告編にぴんとこなかったのは「お話」が前面に出てたからかな。考えたらジャームッシュの映画だもの、そういうんじゃない。こういう人達がいる、彼らがふれあう、そのあれこれを、映画の楽しさでもって見せてくれる。ティルダ様が本を次々と指でなぞってゆく場面の快いこと。
思えば今は「吸血鬼」映画にこそ、作り手のセンスが表れるとも言える。ニール・ジョーダンの「女」「吸血鬼」というアウトサイダーの物語「ビザンチウム」(感想)も素晴らしかったけど、本作にもジャームッシュそのものが存分にあふれている。この世には避けられない困難があり、その対処法は人それぞれだけど、「恋人達は生き続ける」。今見たかった彼の映画はまさにこれって感じ。


満天の星が回っているので、クレジットの血文字も逆に回って見えるという、考えれば意味付けできそうなオープニング。空を見上げていたカメラが今度は逆に空から見下ろすように、レコードが回り、ティルダ・スウィントン演じるイヴとトム・ヒドルストン演じるアダムの姿も回転しながら登場する。
訪問者に気付いたアダムが窓から外を見下ろす。「作用」のためか、遠いところに居るイヴも同様に窓から外を見下ろす。アダムの現在の「付き人」役のアントン・イェルチンの、車のトランクから楽器を下ろす仕草がどこか大仰で滑稽なのに、わくわくさせられる。
アダムの住処を「外」から見た画が初めて現れるのは、イヴが彼のところへやって来る場面。外に出ないアダムに対し、イヴにとっては、「素敵な楽器なんて世界中にたくさんある」とのセリフに表れているように「世界中が私の住処」。これならあちこち飛行機で移動しようと「インドア派」と名乗れる(笑)


現在の彼らは人の生き血を吸うことはせず、医者と取引して血液を入手している。(一部の)「汚染」された血を摂取すると体調が悪化するようで、アダムは現代人を「ゾンビ」と吐き捨てる。「あいつらの科学者の扱いときたらどうだ、いまだにダーウィンを疑ってる」「あいつらは後先考えないから何でも手遅れだ」。
人間の愚かさを嘆いてばかりのアダムに対し、「こんなに長く生きてるのにまだ分からないの?自分の心にこだわるのは時間の無駄」「自然を愛でたり友愛に浸ったりするほうが大事」とイヴは意見する。内に向いている彼と外に向いている彼女、それもそうだなとアダムが「思い直す」日が来るとは思えないけど、その後、二人は抱き合って踊る。それを真上から捉えた画は、吸血鬼というアウトサイダーを見守っているようでもあり、事情が違うだけで人間も吸血鬼も、それこそ星から見下ろせば皆同じと言っているようでもある。


私にとってジャームッシュはいつまでも、最愛のカウリスマキの友だから、表現者としては「違」えど、勝手にスクリーンの中に仲間の匂いを嗅ぎ付けるのが楽しい。何と言ってもまずは、街並や建物(の内外)を撮る際の腰の落とし具合が似ている。本作は特に、種類は異なれど「青」が基調ということもあり、よりアキ映画を思い出させる。そして序盤の病院での一幕…アダムがサングラスをするのは吸血鬼ゆえ光に弱いためだけど、なんと「パラダイスの夕暮れ」で強がるマッティ・ペロンパー、その他アキ映画のキャラクター、愛しくも虚勢を張る人々を思い出させることか!それから脱ぎ置かれた手袋のカット、きのこ(笑)、バンドの演奏シーン、「恋人達が生き続ける」という結末。尤も「恋人達」を描く目的というか心構えは、アキとジャームッシュとじゃ随分違うような気もするけれど(なんというか、ジャームッシュの方がうんとカジュアルだよね・笑)


吸血鬼達の髪がごわごわなのもいい(何か「意味」があるんだろうか?)。「野生的」であると同時に「静止感」とでもいうような味わいがある。病院で血に気を取られた後のアダムの横顔のカットなんて、束ねた髪がさらさらだと全然印象が変わってきちゃう。私はトム・ヒドルストンのルックスが苦手だけど、本作で初めていいと思った。古いテレビに映るティルダ様を見る顔の美しさにはまさに完敗。