サニー 永遠の仲間たち



オープニング、6時に鳴った目覚まし時計をすぐさま止め、夫と娘にベッドまで「おめざ」を運ぶ女性。品数豊富な朝食を出し、広い住まいをきれいにし、ようやく窓辺で一人、冷め切った固いトーストをかじる。眼下にふざけ合いながら登校する女生徒たち。微笑む彼女に、どういう人が、こういう時に微笑むものだろう?と思った。


裕福な家庭の主婦ナミ(ユ・ホジョン)は、見舞い先の病院で高校時代の友人チュナに再会した。余命わずかな彼女の「皆に会いたい」という願いをかなえるため、ナミは当時の仲良しグループ「サニー」のメンバーを探し始める。
映画は「今」と25年前とを行き来する。過去のパートに、80年代の韓国映画って観たことないから、変な言い方だけど、こういう感じだったのか〜などと思う。(紙をまいた)「かみそり」や音楽などの風俗は日本の80年代にも通じるけど、政治運動の様子はこちらの70年代ぽく、その組み合わせが新鮮だ。


予告を見るたび、その(女優さんの顔だけじゃない)小奇麗さにイラッとしてたけど、観てみたら楽しかった。もうちょっと見たいと思わされるくらいぽんぽん進むテンポのよさ、あれはああいう意味だったのかと思わせる話のうまさ。
ナミが久々に高校に足を向けるのを始めとして、彼女が職員室に入る時、電車の窓に映る時など、今のナミと高校生のナミとを起点に、随所で「時間」が移り変わる(ついに二人が「触れ合う」こともある)。宣伝には「人生で一番輝いてた日々が、またやってきた」とあるけど、私には、どの場面でも「今」の方がずっといいように思われた。だって大人の方が、何だってできるもの。もっともそう思うのは、ナミが「昔と変わらず」美人で金持ちだからかもしれないけど(笑)


「今」のナミとチュナ二人の場面には、病院で再会するシーンから全て感動する一方、「仲間」の場面は「昔」も「今」もあまりぴんとこなかった。私は「仲間」向きじゃないんだろう(笑)
病室で寝ているかに見えたチュナが、去ろうとするナミに「なぜ黙って帰ろうとするの?」と手を伸ばすシーンでは涙がこぼれた。それにあのエンドロール。ナミの顔の見えない夫は一体何なんだと思う。可哀相とか家庭の意味とかいうんじゃなく、「家庭」など色んな概念があるこの社会においてこそ、ああいう「愛」があるのかなと思う。


冒頭の「朝」はくそみたいだけど、仲間と再会して色々あって、そういや私もお母さんに迷惑かけてたなと思い出したもんだから、後日、同じように娘の「世話」に追われながら、ついくすっと笑ってしまう。同じことしてても気持ちが違う。ああいう描写、いいなと思った。ラスト、ナミの2ヶ月を知らない夫は以前と同じだが、娘の方は少し変わっている。「自分」が変われば周囲も変わる、夫との関係もそうかもしれない。
ナミと「美少女」のスジが「理解」し合うおでん屋での場面もよかった。ナミいわく「前の学校じゃ私が一番美人だったのに、ソウルに来たら美人がいっぱい、中でもあんたはすごくきれい、だから好きなの」(ここで「転校初日」のナミのにかっとした笑顔はそういう意味だったのかと分かる)。自分をちゃんと「美人」と言える主人公っていい。


もっとも、例えば前述の「お母さんに迷惑掛けてた」一例は、寝坊して「なんで起こしてくれなかったの!」と朝食もそこそこに飛び出してくという描写なんだけど、こういう「紋切り型」の数々にはやはりむかついてしまった。なぜむかつくのかなあ?
それから、過去のパートにおいて、ナミは可愛いのに兄は不細工だったり、今のパートにおいて、25年ぶりに会った男性に昔の面影が全く無かったりと、男の容姿(によるこちらへのサービス)が軽視されてるのもちょっと不満だった。