ルート・アイリッシュ



背筋ピンのまま観賞、終わってから席を立つのも難しかった。
ある種の容赦の無さとサスペンスみっちり、アクション有というあたり一見ケン・ローチぽくないけど、観終ってみれば、やはり彼なんだと思った。何を「言いたい」か、それをどういう映画にするか。


「ルート・アイリッシュ」とは、バクダッド空港とグリーン・ゾーン(米軍管理区域)とを結ぶ、テロの標的になりやすい「世界一危険な道」のこと(など、必要なことは作中のセリフで分かる)。そこでは民間企業による、いわゆる戦争ビジネスが幅を利かせている。かの地で雇われ兵として働く主人公ファーガスは、親友フランキーの「ルート・アイリッシュ」上での死に納得できず、真実を追う。


オープニングクレジットと共に流れる「回想」からして何とも言えずいい。いかにも「遠い昔」の図、ケン・ローチお手の物とも言える場面、船上で酒瓶を持ってふざけ合う少年二人は、未来に広がる無数の選択肢について語り合う。彼らが選んだ道が、この物語だ。
この「船」はその後、何度も登場する。「今も毎日これで行き来する」という主人公は、終盤「昔に戻りたい」と口にする。自分のことを「金の亡者、それが俺たちだ」とはっきり言う。


フランキーの妻レイチェルは、亡き夫の遺品を片付けながら「彼がイラクにいることを忘れようとしてた、ニュースも見ないようにしてた」と語る。一方、悲惨な事件の動画を見て部屋を出ていった彼女を追うファーガスは「現実を見ろ」と繰り返す。どちらについても、確かにそりゃそうだけど、何なんだと思う。でも自分だって、そういう人とは付き合いたくないなあ、と思うことくらいしか無い。それも何なんだと思う。


「ある民間兵の死」の謎を扱った話でありながら、主眼はそれを追う主人公の内面の変化にある。打ち付けられた棺をこじあけ親友の手を握る冒頭から、「真相」に近付き冷静さを失い部屋を飛び出し、物語の最後に至る。
フランキーの仕事のメールを「盗み見」したレイチェルいわく「愚痴ばかり、やめたがってたに違いないわ」。「私の知ってる彼とは別人みたい」という彼女に、ファーガスは「俺だって、こんなの君の前だけだ、船を降りたらもう別人だ」と言う。「レイチェルの前」でだけ「別人じゃない」のだ。このことと、最後に彼が彼女に(受話器をとってもらえない)電話で「愛してる」と告げるのは、無関係じゃないと思う。しかし、「お金をもらっても息子は返ってこない」と泣く母親の声を聞くと、どこかで「別人」になれるなんて贅沢なことだと思わされる。


ファーガスの、ラフなスタイルでのジョギングや、人気の無い(であろう)ところに持っている簡易ジムでのトレーニング、勘弁な拷問方法などがリアルだ。「そんな気になれなくて」殺風景なままの部屋で、窓の外に銃を構えてみる理由は何か?