アバウト・タイム



ドーナル・グリーソン演じる主人公の母親役に「ウィークエンドはパリで」(感想)が素晴らしかったリンゼイ・ダンカン(「美人は笑いのセンスを磨かないから云々」って、私は「ウィークエンド」の彼女は今年見た映画の中でも屈指の美女だと思うけど)、家族が外で見ている映画がイーストウッドの「荒野のストレンジャー」、更に「ウィズネイルと僕」からスペシャルゲストが二人!と、今年見た映画とのリンクが次々と。現在進行形で映画を見る面白さって、当たり前だけど、こういうところにある。


「恋」に重きが置かれている間は乗れず、「家族」に重心が掛かってきた辺りから、正確には主人公が妹のために走り出す場面から面白くなってきた。前半が苦手な理由は、「性」(行為じゃなく感覚、「同性愛」等も含む)絡みのやりとりが、男女共に何も考えていないようにしか思えなかったから。それに、もしも私がメアリーの立場で、知らないうちにこんなことされてたら嫌すぎる!としか思えなかったから。後半も、妹のベッドの傍らで彼女がとある決意をするまで「ねばる」くだりなど、歪んでいるようにしか思われず。主人公が勝手でも映画はそれでいい、むしろ面白いとは思うんだけど、この映画の場合、良識あるようなふりしちゃってさ、みたいな(笑)
印象に残ったのは、「雨の日の式でよかった?」「よかったわ」「よかった」なんて単純なやりとり。思いやり合ってはいても「意味」は通じ合っていない、ああいうのが面白い。あと細かなことだけど、「二度目」にお昼の買出しに行く場面、「一日をポシティブに過ごすとお腹が空く」というのはいい。
それにしても、あんなにお布団と仲良しのレイチェル・マクアダムスは初めてじゃない?超似合っててキュートだった!


例えば「恋はデジャブ」の前半もそうだけど、時間ものの主人公の男性(男の例しか思い浮かばないけど、女の例もあるかも)って、時間旅行で得た情報を利用して女性の心を得ようとするけど、私にはそれが、失礼で卑しい行為に感じられる。「恋はデジャブ」の場合、マーレイは「達観」するし、そもそもマクドウェルは彼の言動を「毎日」「忘れ」てしまうわけだけど、本作のグリーソンは「それら」をせこせこ使って「彼のことが好きでたまらない」と言わせてしまう、そこが嫌。尤も真面目な話、リチャード・カーティスの面白さって、利己的で何が悪いってところにあるのかもしれない(笑)
相手に関する情報を得る過程って関係を構築するのに大切なものだし、仮に一方的に行うとしても、その行為に関する情報に相手はアクセスし得るべきだと思う。全てを明らかにし合わなきゃダメだという意味じゃなく、フェアネスの問題。ともあれそういう理由からしても、本作は釈然としなかった。