トスカーナの贋作


オープニングクレジットがぽつぽつ出現する間、空っぽの、マイクが用意されたテーブルが長々と映し出される。上の階にいながら遅刻する講演者の男、さらに遅れて座り、子連れでばたばたする女、講演中に鳴った携帯電話に出る男、立ち去りながらその姿に微笑む女。なんだか気の合う二人って感じがする、オープニング。



男…作家ジェイムズ(ウィリアム・シメル)は「美術畑の人間ではない」が、「贋作」についての本を著した。「芸術を語るのは難しい、よるべき真実がないから」「芸術か否かは見る者による」「たとえ贋作でも心が乱されるから、部屋に置くのは実用品にすべき」。始めに示されるこんなセリフが、よくも悪くもその後の道しるべとなる。
女(ジュリエット・ビノシュ)は息子と暮らす母親。イタリアの小さな町でギャラリーを経営しているが、美術品の造詣はない。


講演後に再会し、ギャラリーから外に出る階段を男がさっさと先に上っていくあたりで、なんだか妙な感じ、初めて会った者同士じゃないなという感じがする。カフェで「夫婦」と間違えられた後から、二人は「夫婦」になる。会話の内容が次第に波風立ってくる。
(ちなみに私はこの映画を、「(子どもも巻き込んで)初対面ごっこをしていたら、色々溢れでてしまった一日」というふうに観た)


女が愚痴る息子との会話。「風邪をひくわよ」「風邪をひいたらどうだっていうんだ」「死んだら困るでしょ」「死んだからどうだっていうんだ」…対して男は「まあ、何だってそうとも言えるよな」。女は怒って「息子やあなたの責任を負うのは私なのよ」。会話のステージが違う、とも言えるし、一人の人間が二つに分裂してるような感も受けた。


「お昼には遅すぎ、夜には早すぎる」誰も居ないレストランで、二人の諍いはクライマックスを迎える。女のセリフ「(風呂が長いと言われ)あなたのために磨いたのに」「(イヤリングや口紅を着けたことに気付かないことに対し)あなたのためにきれいにしたのに」なんて、「女」が言う(とされる)ことばかりで苛々したし、その後の男の「一つ言っておきたいことがある」内容には笑ってしまった。


二人のやりとりの間、向かい合っている時は彼らの顔が交互に映され、ドライブのシーンではフロントガラスを通して二人並んだ映像が延々続く。ガラスに映った木の影を追っているうち、カメラが車外に振られる瞬間が気持ちよかった。