スピード・レーサー


うまれて初めて、劇場内に観客が二人(同行者と私のみ)というのを体験。裸足でばたばたしたり色々話したりできて楽しかった。



観ながら、原作アニメ「マッハGoGoGo」の魅力とはどういうものだったのかと考えた。
第一に、40年を経た実写映画でもそのまま使える、マッハ号の造形とその装置の数々。加えて当時の日本ならば、リアルタイムで観たわけじゃない私の想像だけど、主人公一家の生活…広い洋館、でっぷり貫禄のお父さん、きれいでおしゃれなお母さん、などのアメリカぽい暮らしぶりも魅力だったろう。それを当のアメリカ人が再現していることに、ちょっと面白さを感じた。
他国の人々、とりわけ監督のウォシャウスキー兄弟にとっては何だったのだろう。当時のアメリカの他のアニメにはない美学、のようなものかな?
ラストで新聞の見出しに「家族の勝利」とあるように、映画ではハリウッドらしく家族愛が強調されているから、そういう部分も魅力だったのかもしれない。そのわりには肝となるマッハ号の改造を、赤の他人が行っているあたりがよく分からないけど…(笑)


原作のオープニングアニメでは、マッハ号がキリンや象を追い抜いたり砂漠を駆け抜けたりと世界中を巡るけど、映画版のレースはそれを拡大したように、わけのわからない無国籍な舞台において行われる。「フジレース」において、事態は深刻なのに、一家が首にレイなど掛けて周囲に溶け込む格好で観戦しているのが笑えた。


一番楽しかったのは、最後のレースを前に、家族総出で「32時間で!」マッハ号(マッハ「6」号)を作るシーン。
パパが設計図をひき、クリ坊とチンパンジーのチムチムが塗装をし、ママはピーナツサンドを振る舞う。スピード(エミール・ハーシュ)とガールフレンドのトリクシー(クリスティーナ・リッチ)の青いつなぎ姿も可愛い。作中唯一の、二人の薄汚れ姿だ。ちなみに最後のレースでエミール・ハーシュは汗を掻いたふうのリアルな顔つきだったけど、CGで作り上げられた原色ギラギラの世界では浮いているように感じた。


ちなみに私が「マッハGoGoGo」を観たときに感じたことのひとつは、剛のガールフレンド、ミッチーのキャラクターに対する新鮮さだ。今の、というか私が物心ついてからのアニメや漫画では、女の子は大抵「男まさり」「真面目」など何らかのキャラクターに分類されるけど、ミッチーはただの「女の子」で、特徴がないように思われた(もちろんヘリを運転するなど「活発」な「お嬢様」であることは確かだけど)。映画版のクリスティーナ・リッチもあまり余計な色をつけられておらず、好感が持てた。レースにまで参加するのはびっくりしたけど(笑)



「教えてくれますか…あなたはなぜ走るのか」
「何かに駆られるんだ」
「じゃあぼくは何のために走るのですか…?」
「…君がみつけるのさ、君なりのものを」