アウェイ・フロム・ハー 君を想う



「だって彼は、私を混乱させないもの」



カナダの湖畔に暮らすグラント(ゴードン・ヴィンセント)とフィオーナ(ジュリー・クリスティ)は結婚して44年。アルツハイマー認知症に罹ったフィオーナは自身の症状を認め、介護施設への入居を決める。1ヶ月後、面会を許されたグラントが訪ねると、彼女は夫のことを忘れて他の男性に執心していた。


ラブストーリーには様々な形があり、その向かうところは、互いに最高の愛でもって愛し合う状態、ばかりではない。これは愛する者の喪失への序章を描いた物語であり、認知症の症状に伴う本人あるいは周囲の「変化」が、人々の表情や情景、抑えた音楽によって表現される。暗い印象はなく、生きていれば色々なことがある、と思う。
自分を認識しなくなった妻に対面する夫の姿を見て、パートナーとは決して「赤い糸で結ばれている相手」ではなく、共に歴史を作ってきた相手なのだと思った。私たちはそれを一瞬にして失う場合もあれば、徐々に失う場合もある。



「『黄色』がどんな色だか思い出せないの…でも忘却が甘美に感じられるときもあるわ」

彼女のかつての姿が何度か挿入される(彼の姿はあるエピソードの折にしか表れない)ことから分かるように、この映画では彼女は内側からでなく外側から捉えられている。映画の冒頭近くでフィオーナが語る言葉から、彼女の症状の「入口」部分は分かるが、その後の状態や心境は想像するのが難しい。
しかし彼女がろくに口も利かない入居者の男性につきっきりとなり、その理由を問われると冒頭のようにこぼす気持ちには共感してしまう。不愉快なのは「混乱させられること」…それはボケていようといまいと、今現在の私だって同じだ(笑)でも、毎日訪ねてきては「わけの分からないことを言う」男性に向かって「出直してきて」と口にするとき、どういう心持ちなのかは分からない。


認知症はある意味、単純に「哲学的」な病である。フィオーナの担当看護師はグラントに対し「(忘れられたことで消えたように思われても)いったん起こったことは消えない」と言うが(同行者はこのセリフは、まるで自分に言い聞かせているようだったと言っていた)、誰も覚えていないことは存在し得るのか。私はそう思わない。


上映前、北野武アキレスと亀」の予告編が流れたんだけど、この映画(の断片)において画家の夫に寄りそう妻(樋口可南子)の美しさに対しては、女としてメンテした上にダンナにつき合うなんてめんどくさ…という感想しか持てなかった。しかしジュリー・クリスティの美しさには、自由や自律、個性を感じ魅せられた。後半の、症状が進んでからの表情も何か満ち足りたように見えた。
もう一人の女性を演じたオリンピア・デュカキスも良かった。まさにああいう顔つき、化粧の人がしそうなことをする(悪い意味ではなく)。


ところで、施設によりけりだと思うけど、この映画のように入所直後の「30日間の面会禁止」というのはポピュラーなことなのだろうか?少し気になった。
(追記…基本的にはああいうの、ないそうです。やっぱり。ありがとう)