テラビシアにかける橋


11歳のジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)は、学校ではいじめられ、うちに帰れば貧乏暮らしに追われる父親(ロバート・パトリック)から手伝いを強いられる毎日。しかし隣の家にレスリーアナソフィア・ロブ)が引っ越してきたことから生活は一変。森の中に二人だけの王国「テラビシア」を作り、日々を過ごすようになる。



原作を知らず、ナルニアのような話かと思っていたら全く違っており、色々考えてしまった。
冒頭、朝っぱらから必死こいて走っているジェス(何をしてたんだろう?)は汗まみれのまま食卓へ。バスに乗れば学校の女ボスからパンを投げつけられ、中身が飛び出してシャツはぐちゃぐちゃ。はやく綺麗にしてくれないかと気になってしょうがない。レスリーの方は、「テラビシア」においてジェスを振り向きもせず走り、語る姿に、「ガラスの仮面」のマヤが体育倉庫で「女海賊ビアンカ」を演じるくだりを思い出した。対応に困るというか、私にとっては子どもの頃も今も友達になれないタイプだ。まだ女ボスのほうがいい。そんな二人が森の中に王国を作る。
物語はそちらの世界をメインに描かれるわけではない。そもそも彼等は他のファンタジーもののように、あらかじめ存在する世界によって選ばれたわけではなく、学校や家で過ごす時間の合間に、自ら世界を創造してゆく。


まず思ったのは、レスリーの服は誰が選んでいるのかということ。ジェスが「着のみ着のまま」というかんじなのに対し、金銭事情もあるんだろうけど、彼女の方は毎日少しずつ異なるポップで可愛らしい格好だ。偏見だけど、作中出てくる両親の選択とは思えないし、彼女のような想像癖を持つ子がああいうセンスをしているというのは違和感がある。逆にそうなら面白いとも思うけど。


それから、あちらとこちらの世界がある場合、興味を惹かれるのは行き来の方法だ。ジェスとレスリーは、テラビシアへ「ロープにぶらさがって」渡り、入国する。私は小学6年生の頃すでに身長が156センチあり、背はそれから少ししか伸びなかったけど、体重は当時と今とでは10キロくらい違う。ロープで渡ることができるのは、お尻の小さな子どもだけだ。彼女は女にならなかった。


レスリーを失った後、森の中でジェスは怪物に追われる。山岸凉子の「鬼来迎」が思い浮かんだら、同じような展開だった。意味は異なるけれど。


教室では口を開かないジェスが、憧れのエドマンズ先生(ズーイー・デシャネル)に初めて声を掛けるシーンがいい。
「…先生」
「…あ、喋った」
「手伝いましょうか」
「今日はいい日だわ」
教員というものは普通もっといやらしい会話をして(教職経験者なので偏見も許して・笑)、子どもに見抜かれるものだ。しかしこのように思ったままのことを言うと、気持ちが通じるし、ゴタゴタ言い返されない(笑)


観終わって考えてしまったのは、彼等が作ったのがなぜ「王国」だったのか、ということ。テラビシアは自己実現の場だ。聖書の教えを、積極的でなくとも疑わず受け入れていたジェスが、レスリーと共に「自分の目でものを見る」ようになり、以前は畏怖の対象であった森に分け入り思うままに世界を創造してゆく。二人は住処を作るだけでなく、民になるだけでなく、王様と女王様になる。私も子どものころ想像ごっこをしたけれど、統治するという発想、欲求はなかったので、どういう気持ちの表れなんだろうと思った。
物語のラスト、ジェスが「お姫様」となる妹メイベルを連れて渡るテラビシアへの橋の欄干は黄金に変わる。彼が作った木のつるのままのほうが、私にはずっと美しく感じられた。


ちなみに同行者いわく、レスリーのキャラクターは「イーストウッドが女の子なら、あんなふうかも」(笑)また彼女の現実味のなさも、この物語を本来の「児童文学」と捉えれば有り得ることで、「風の又三郎」を思い起こさせると言っていた。


(ジェス、誕生日に絵の具セットをプレゼントされて)
「これ、高かったんじゃない?」
「じゃあ安いのと取り換えてくる?(笑)」
↑これは子どもの会話じゃないだろ〜。でもいい言い草だと思った。
それにしてもジェスは、彼女に冷たくしてしまった次の日に犬をプレゼントしたり、メイベルにさりげなく王冠を用意しておいたりと、このまま育てば、デートしたらさぞかし楽しい男の子になるだろうなあと思った。