チャプター27


とても面白かった。抽象的な言い方だけど、こういう私的な物語って、作り手と主役がよほど「一体」でないと飽きてしまうものだけど、そういうスキが一瞬もない。ほぼ全編に渡る、主役を演じたジャレッド・レトのナレーションに魅せられた。



1980年12月、クリスマスの近いある日、マーク・デヴィッド・チャップマン(ジャレッド・レト)はニューヨークの空港に降り立った。目的はジョン・レノンに会うこと。同じようにジョンを待つジュード(リンジー・ローハン)のアドバイスでサイン用の新譜を買った彼は、「ライ麦畑でつかまえて」を抱え、ダコタ・ハウスの前に立ち続ける。


観ながら、物事に「理由」はなくとも「意味」はある…正しくは、私は物事の「理由」は求めないが「意味」は求めてしまう、ということを改めて認識した。
私は自分自身の髪型、服、靴などには全て「意味」があると考えている。ジャレッド・レトを画面で見た瞬間、彼…ジャレッドがなぞっているマーク…の格好、あの眼鏡や白い靴、上着にはどういう「意味」があるのか考えてしまった。積極的な選択でなくとも、決定に至る背景があるはずだ。ホテルで着替えるシーンが何度も挿入されるので、余計に気がいく。ちなみに服装は、私には聖職者ぽく感じられた。
また、ラストに挿入される「あなたに向かって話してるんだ」と言う場面には、彼にとって「誰かに何かを話す」ということにはどういう「意味」があるのか、考えさせられた。
マークがジョン・レノンを殺した「理由」については、はっきりと描かれない。「別人になる」と部屋を出るので、自分のためだというのは分かる。ただひっきりなしに、彼の独白が続くのみだ。それらが積み重なって、引き金に指がかけられる。そういうものだと思う。


「作品からメッセージが伝わってくると、親友になったような気になる、まるでいつでも電話できるような…」とマークは言うけれど、私にそういう気持ちはない。実際に自分と関わらない人間に対して、どうこう思うことはない。でも彼のように感じる人もいるのだろう。世の中には多くの有名人がいるけれど、皆よく殺されないで済んでるなあと思った。


私はよくお風呂で、鏡を使って自分の背中をチェックする。背中の脂肪は、中年以前の人の場合、「太った人」としてある程度の年月を過ごした証拠だ。一方下腹なら、怠惰になればすぐにたるむ。この役のために30キロ太ったジャレッド・レトの体は、やはりアンバランスな感じがした。お腹が異様にふくらみ、バックショットはごつごつしている。急激な食生活の変化のためか、顔の肌が荒れていたのも気になった。本物のマークは艶々していたんじゃないだろうか。


リンジー・ローハンと同じく、私もポランスキーは眠くなるタイプ(笑)なので嬉しかった。映画での彼女はとても好きだ。あの声もいい。


(マーク、ニューヨークの街での独白)

「人は『する』といったことをしない」


(ホテルから電話をかけて)

「あのときは電話しないと言ったけど、なんとなく…」