落下の解剖学


冒頭ヴァンサン(スワン・アルロー)が白い紙に図解しながら「ぼくらはこの線を通さなければ」と言うのに、法においてどうこうという意味じゃなく、なぜ自分の無罪だけでなく他の話を示さなきゃならないのかと思いつつ見始めたら、これは皆が自分の物語を通そうとするこの世界を裁判を使って描き出す映画なのだった。終盤裁判長に「これは彼の最終弁論ではありません」と茶化される彼の弁護はかつて恋したザンドラ(ザンドラ・ヒューラー)のために主張する物語であり、「初めて会った時の私はどうだった?」「野性味に溢れててぼくは一目で恋に落ちた」「全然覚えてない」、これだってそうなのだ。

そういう目で法廷を見ると、専門家なら説明なしで「これ以外には考えられません」と断言できるのが奇妙に感じられ、検察側と弁護側で異なる結論が導き出される滑稽さに笑う。「50セントの『P.I.M.P.』の歌詞は女性を侮蔑しています」「インストでした」なんて簡略化されるとまた笑いが込み上げる。立ち見まで出ている野次馬の顔、顔、顔、テレビ番組で「この説の方が面白い」とネタにする何らかの論者(「地味ハロウィン」のテーマみたいだ笑)。ヴァンサンがザンドラに言う「どう見えるか、味方がいるか否かが大事」なんてよく聞くことじゃないか。仕事上の功績でもって有罪を免れた「偉い男たち」なんて幾らもいると読む。

ザンドラの息子ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)はそうした世の中に生きてまだ日が浅い。物語が確定しない戸惑いから犬を使って実験したり、母親と裁判について話さないよう監視しているスタッフに「あなたの思っていることでいいから聞かせて」とすがったりする。両親の不和が暴かれる場へ出向いて確固たる何かを掴もうとする。そんな彼の語る物語が最後に「勝つ」。

判決後にザンドラが「負けは負け、でも勝ったら見返りがあると思ってたのに何もない」と言うのは、ダニエルのようなやり方で得た物語でなければ勝ってもむなしいという意味だろうか。その後にヴァンサンの顔をじっくり眺めて共にうなだれるのは、彼の物語を支えているものを二人して確認したからだろうか。ともあれ帰宅した彼女は「会うのが怖かった」息子と顔を合わせ、「真実」に接しているだろうが話はしない犬と寄り添って眠る。

アヴァンタイトルの検視の場面で裸の男の背中から腰、尻までが丸見えのカットに、こういう男性表象は珍しいなと思う(そもそもフィクションにおいて…たぶん現実でも…殺されて検視台にのせられるのは女の方が多い)。後半に音声で「再現」される夫婦の諍いの内容も、「家事や世話をしながらでも執筆できる」「あなたが書けなかっただけ」なんて男女が逆なら死ぬほどありふれたものだ。こうした創作物が現実をよりよく引っ張り、女を生きやすくしてくれる。そもそも以前は自分の話を主張するのは「偉い」人しかできなかったわけで(女の話なんて同じ女にもなかなか届かなかったわけで)馬鹿げた内容でも投げ合えるならそれよりはましだと私は思う。

ソウルメイト


(以下「ネタバレ」しています)

序盤はオリジナルにない要素である「教室の空席」「雨に濡れた子猫」などをクリシェに感じて乗れなかったけれど、ミソ(キム・ダミ)とハウン(チョン・ソニ)が文通するあたりから引き込まれる。私にはこれは「女は旅ができない」世界で愛し合う女二人がどう生きるかという話なんだけど、それを活かした終盤の展開やラストシーンが妊娠や出産、「女の死」によって成り立っているのが、つまりストーリーそのものが受け入れ難い。それによって美しく描かれる女同士の愛が、その内部だけに留まっている感じも。

社会性が少し付与され現実的が少々増した本作には、不自然さを感じると同時にそれゆえの面白さ、はっきり見えることもあった。例えばハウンの誕生日の朝。ミソは「占領している」廃墟で(使われていない建物を女子が勝手に使っている映画に私は弱い)並んで海を眺めながら外国を旅して回ろう、一緒に行こうと話す。この物語では二人とも、いや女は誰もその類の旅はしない。ミソが済州島を出たのはやむなくであり、ハウンの旅を欲する気持ちはまだ埋まっている。

釜山旅行のディナー。出会った日のハウンの家での夕食の席から分かっていたことだけど、この物語には親にお小遣いをもらえる子とそうでない子の人生の違いが描かれている。嫌いなものを食べないという甘えもきついブラジャーをつけるという忍耐も親の元だからすること。一切出てこないミソの父親(序盤で母親が話しているのがそうなのかどうか分からないけど)と出ずっぱりのジヌ(ピョン・ウソク)という二人の男が女達に大きな力を振るっている話だとも言える。

ジヌのソウルの部屋の風呂場。結局はミソも、おそらく男の力を借りるためにブラジャーをつけるようになっている。オリジナルでは「ミソのことなんて誰も愛してない」だったのが「愛してるのは私だけ」になっている、あるいは同じことなのか。実家暮らしのハウンと家を追い出されたミソが男の部屋で男抜きで対峙する。釜山のシーンでもオリジナルより前面に出ていたけれど、リメイクではお金の問題が強調されている。

ハウンとジヌの新居のカットと「初めて実家を出たから」とのセリフで、彼女が親の元から夫の元へ、男が運転する車から車へ乗り換えるように生きてきたのだと分かる(だからミソとハウンの二人乗りに大きな意味、輝きがある)。彼女は男の後ろ姿に気付いてしまう、愛する相手には好きなように旅してほしいと願うものじゃないかと。オリジナルからの改変のうち、この場面と結婚式に逃げるのがハウン自身である点に一番韓国らしさを感じた。彼女が飛行機が苦手であること、「ミソ」の名前の意味などの設定も活きている。

最後の展覧会の場面で、ハウンの方も同じようにミソを見ていたことが分かる。それからハウンの人生の過程の全てに愛があった(と二人が考えている)ことも。これもオリジナルにはない要素で、目線がずいぶん優しいなと思った。

ぼくの好きな先生


早稲田松竹の二コラ・フィリベール特集にて久々に観賞、2002年フランス制作。序盤は子ども達がこちらをちらと見てくるのが授業参観あるいは研究授業…という既成の、日本の言葉はしっくりこないけど…に参加しているようで楽しい。牛のそんなように見える目つきまで入れてくるんだから面白い。

全学年(3歳から11歳!)の全科を一人で受け持つロペス先生の仕事、ひいては場の特殊性を、映画はこちらの視界を少しずつ広げて少しずつ明かしていく。小さな子が塗り絵をする一方で大きな子が計算している。先生との会話で聞く・話す、教材で読み書き、それから算数、家庭科や体育に相当する学習までが行われている。小さな子は大きな子が先生と勉強している間は声を潜めて喋り、大きな子は小さな子の面倒を見る。やがて三つの島に分けられソファや自然物が適切に置かれた教室の全景を望む。中学校へ皆で見学に行ったり合格発表をいつもの席で行ったり(小さな子が後ろに立って聞いているのがすごい、日本の教師なら声を掛けて下がらせるだろう)するのが面白い。常に全員一緒で先生は片時も離れられない。しかも学校に住んでいるんだから何て仕事だと思う。

子ども達の自宅学習の様子を見せる前に家業のカットが挿入されるのには地域や保護者への敬意を感じた。母親にはたかれながら九九を暗唱するジュリアンの周囲に家族が大集合する様子など最高に笑えるけれど、こうした場面も一切物語に与しないのが見事、あざといくらい編集がうまい。ただただ疑問と気付き、それから何とも言えない感情が湧いてくるという稀有な映画体験ができる。

「うちの子は私と同じ双子座なんですけど」なんて言い出すナタリーの母親との面談中の先生の、職務を意識しつつも大人同士の自然な笑顔には引き込まれた。「先生は命令する、私たちは命令を聞く」と小さな子が(!)言っていたけれど、権力差がある場合、特に笑いはコントロールされる必要があり、先生はそうしているから。しかしこの映画はそんな先生のちょっとした感情の漏れ…「またか」なんて言葉や苦笑なども捉えている。教職が本当に好きで、信じられないほど頑張ってきていても、あるいはそれだけに、私には定年を控えた先生が一杯いっぱいにも見えた。「また書き取りか」は退職について話すためにわざと口にしたようだったけど、「やりたいことがたくさんある」のは本当のように思われた。

冒頭文字を書くための練習において皆で評価するフィードバックを行う際、「誰にも見せない」と言っていたマリーがすんなり紙を渡しスムーズにことが運ぶのは、子どもの了解、すなわちこれまでの積み重ねがあるから。私達が見る「教室」は常に「途中」である。しかし、大抵は日本で言うところの学級開き(初日)にスタートして積み重ねられていくのが、ここではその特殊性ゆえ常に途中も途中。それが初めてある「終わり」を迎えるのが映画の幕切れとなる。中学へ進学するナタリーへの「これからもおいで」が疑問と共に心に残る(先生いわく「子どもにとって一番重要なのは能力を発揮して幸せになること」)。

ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ


こんなの絶対助からないだろ!というホラーそのものの冒頭からうってかわっての、主人公マイク(ジョシュ・ハッチャーソン)のドラマがあまりに丁寧。朝の腕立て伏せ、家賃滞納の貼紙、まだ幼い妹のアビー、天井に貼ったネブラスカのポスターと「自然音」のカセットテープの意味、その日常に「廃墟となったレストランの夜間警備」が少しずつ入り込んできて溶け合い話が転がり始める。『小さな恋のものがたり』『テラビシアにかける橋』から見ているジョシュの演技はいいけれど、ハンガーゲームシリーズの印象がついて回っているのかいつも陰があり、明るくロマンティックな役もやってほしいなと思ってしまう。

アビーの親権を金目当てに狙う叔母(メアリー・スチュアート・マスターソン)が、レストランを荒らしてマイクをクビにするという彼に近しい兄妹(妹の方はマイクを好いている)の計画を受け入れるのに、まるで80年代の、例えばグーニーズのギャング一家を今見ているような非現実さを覚えたけれど、不思議と映画の瑕疵に感じない。マイクに仕事を紹介したカウンセラーのフレディ(マシュー・リラード)も見回りに来る警察官ヴァネッサも登場時から私情まみれで現実味がないけれど変ではない。ともあれこの設定でまずは「悪者」たちがマスコットに残虐に殺されてくれるのでありがたい。

原作に無知な私には「ファイブ・ナイツ」の意味が分からなかった程その要素が薄いのと、マイクに感情移入した場合に恐ろしいのが店内のマスコットよりも彼が毎晩ある目的のために自ら見る夢であるというのは元のゲームのファンには物足りないかもしれない。私には全編十分楽しく、感じのいい学校の場面からの「絵は言葉が発達する前にものを考えたり伝えたりする重要な手段」というのが最後に生きてくるのも面白かった。同じく子どもの、誘拐じゃないけれど虐待を扱ったハ・ジョンウ主演『クローゼット』(2020)を思い出しながら見た。

非常に残念なオトコ


舞台は現代のバークレー。ステファニ―・シューとロニー・チェン主演のロマコメ(Crazy Rich Asians(2018)のパロディ)に「あれがおれたち!」と盛り上がる「イーストベイ・アジアン・アメリカ映画祭」。主催者の一人であるミコ(アリー・マキ)は帰宅後、映画を腐した恋人ベン(ジャスティン・H・ミン)に不満を表す。Crazy Rich Asiansについて後に出た批判を思えば確かに当人の言う通り「本当のことを言っただけ」だが、どんな時でもそれはよきことなのか。これは彼女の「道を開いたロマコメに感謝してよね」、just the beginningを彼が理解し実践に至るまでの道のりの物語である。
(ちなみに原作であるエイドリアン・トミネのShortcomingsも映画祭の場面に始まるそうだけど、連載開始の2004年において主人公は何をどう皮肉っていたんだろう?)

翌朝「全くBTSのコンサートかと思ったよ」とのベンの皮肉に軽妙かつ思いやりのある答えを返すのが同じアジア系でレズビアンのアリス(シェリー・コーラ)。思えばこの場面で彼女が女性店員の気を引くために嗜好に合わない「豆腐クレープ」を頼んでいるのに両者の違いが表れている。挑戦するか、しないか。
アリスはかつての映画の「白人女性主人公の親友がゲイ」というお約束の裏返しのようでさすがにこの時代そう単純ではなく、ベンの人生に必要な友である。彼女を苦しめている家族の問題が作中安易に解決されないのがよい。婚約者を演じるのに「韓国系の方の祖父が来るから日本の名字は名乗らないで」と頼まれたベンは「おれの同胞は日系2世で戦時中は…」とここでも「本当のこと」を言い返す。

ベンは日系アメリカ人同士でつきあっていながら(そもそもこの二人がなぜつきあっているのかぴんとこないのは「日本に暮らす日本人」の私が呑気すぎるんだろう)「白人女性」が大好きで、ミコがニューヨークに出掛けた間アプローチをかけまくる。しかし属性で見ていることを拒否されうまくいかない。人種問題に興味がないと言う自分こそが一番囚われていることを認めようとしない。「どん底は高校時代」とのセリフからその言動の根がマイノリティであることを強く意識させられた経験にあると分かるが、自身を守るために他者を攻撃していることに気付いていない。
ポルノサイトで白人女性ばかりを見ていること、「一緒にいても白人女性にみとれている」ことにつき「私に対して失礼じゃない?」と怒るミコに彼はまたしても「マーゴット・ロビーをぶさいくとは思えない、本当のことを言って何が悪い」と開き直る。ここでのミコの言動は若干古いように感じたけれど、20年前の原作の通りなのか脚本を書いたエイドリアン・トミネが改変したのかどちらだろう。

ミコはミコで別の男性(「彼は白人じゃない、両親はユダヤ人と先住民族」)と付き合っていることにつきアジア女食いだと大騒ぎしたベンは、他人ばかり批判して自分を省みないことを女達に指摘されようやく心を入れ替える。アリスやミコが自分といない場に幸せを見出していることを祝福し、バークレーに戻る。
冒頭はロマコメにもまだまだ可能性があるなと見ていたけれど、ロマンティックでもコメディでもなかった。ジミー・O・ヤンがスタンダップでセックスの際「アジア人の割には~」と言われることをネタにするのは笑いになっても、逆の吐露は(自分をさらけ出すスタンダップと役者が演じる映画という違いがあろうと)笑えないというのが私としては正直なところだ(それがダメというわけではなく、この映画はコメディというよりドラマだという意味)。

カラーパープル


アリス・ウォーカーの小説は未読。スピルバーグ版(1985)と同じく映画はセリーとネティの姉妹が手遊びしているのに始まるが(後にネティが言う「まず遊ぼう」…「女の子だって楽しみたい」もんね)、二人が座る木の下をミスター(コールマン・ドミンゴ)らしき男が馬に乗って歌いながら通り過ぎる。なんでここに男がいるんだよと思っていたら、これは愛し合う女達と「男」が融和する(ことを強調している)物語なのだった。ミスターが肌身離さず抱えているバンジョーは「血を流して手に入れた土地」をいわば受け継がされたことへの反抗のしるし。ここには男達が世代によって変わってきていることも描かれているが、その変化は女達のように得たものではない。

黒人だけの世界から外へ出て白人社会に叩きのめされたソフィア(ダニエル・ブルックス)は「一人にしないで」と言ったけれども、セリー(ファンテイジア・バリーノ)がミスターに初めて反撃しソフィアが生き返るあの食卓には二人に加えてシュグ(タラジ・P・ヘンソン)や「スクィーク」(H.E.R.)など女が皆揃っていることに改めて気付いた。正しく黒人女性の連帯の話であり、その手は贖罪後のミスターが店を訪ねて来た後にセリーが一人「私は美しい、そして生きている」と歌うところでスクリーンのこちら側の私達に伸ばされる。

作中出てくる「男」と「女」のありようの数々は、時代も文化も違えど今現在の私達の中に形を変えて生き続けていると思う。ここではその根にソフィアとハーポ(コーリー・ホーキンズ)、シュグとミスターなどの互いにセックスをしたいという欲望があるのが面白い(スピルバーグ版ではシュグがセリフで「彼とのセックスはいい」と言ってしまっていたけれど、こちらは映像で見せる)。それに打ち勝つようでなければならないはずの…なぜなら無いものとされてきたから…シュグに惹かれるセリーのレズビアンとしての描写は、入浴中のタラジ・P・ヘンソンの腕の艶めきが印象的な程度で随分弱い。キスシーンの薄ぼんやりしていたのが特に残念だった。

スピルバーグ版で一番印象的だったのは、アリス・ウォーカーが抜擢したというウーピー・ゴールドバーグ演じるセリーがミスターを「はいはい」といなすように扱っていた点。あまりに酷い境遇の中でそれしか生きる術がなかったという現実味にも取れるし、そうしてミスターを間抜けに見せることで残酷さを薄める及び腰とも取れる。今回の映画ではそうした感じは皆無だった。その代わりが歌と踊りだったとも考えられる。小説を読んでいないので映画化の際の目立った違いの意味合いを読み取るのは難しいけれど、シャグが「セリーのブルース」を歌うタイミングが全く違うのが特に気になった。

同感 時が交差する初恋


素晴らしいリメイクだった。オリジナルの『リメンバー・ミー』(2000年韓国)が若者達のいわゆるメロドラマといった感もあったのに対し、こちらは男女の役を逆転させた上でヨ・ジング演じる主人公キム・ヨンにほぼ焦点を絞っている(告白した相手の反応も見せない編集が面白い)。それにより、どこをどう1ミリ1グラム切り取っても「韓国」らしい物語の中にちょっとしたカウンターが浮かび上がる。韓国の映画やドラマでお馴染みの「運命」に味方してもらえない者の苦難の道のり。

1999年の工学部において「人間には3種類ある、男、女、それから『工学部の女』」と暴言を吐く男の先輩にクズと吐き捨て、将来の確固たる夢を語るソ・ハンソル(キム・ヘユン)をヨンは好きになる。2022年のキム・ムニ(チョ・イヒョン)に「愛と夢」について問われると「夢は大きすぎるから、愛する彼女にふさわしい男になることを夢にしようかな」。そんなふうに考えていた人間が愛を諦め夢に着手する。このようなかつては女性に課されていた役どころを男性が担い、オリジナルでは主人公は「現代」では一言も喋らなかったのが最後には自ら語る口を持つ。

それまで外のシーンなんて幾らもあったのに、ムニが無線機のある自室から出て行く場面の世界の広がりよ。彼女の幼馴染にして「奇跡」に直接関係のないオ・ヨンジ(ナ・イヌ)が、「私って変だよね?」に返す「それで、その人の名前は何ていうの?」に作中一番ぐっときた。その対応はいわば世界の優しさだから。この、互いに好きながら思いを伝えられない二人の関係の描写も非常に現代らしく見ていて胸がいっぱいになった。終盤の「同感」もテーマである「運命なんて知ったらお先真っ暗」も、物語の肝となる言葉は全て彼の口から出る。映画は「思ったまま」を伝えたムニがその彼=世界と抱き合うのに終わるのだった。